世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

統合失調症回復の記録 30

ここ数年身体も心も環境もボロボロになった。身体については若い頃から腰や首のジストニアがあった。ジストニアというのは普段から筋肉がこわばって引きつる病気だ。それが徐々にとけている。

そして若い頃(たぶん20代)から嗅覚を失っていた。これが昨日くらいから徐々によみがえっている。

運が良いのか悪いのかはリアルタイムではわからない。私はたぶん一般的なひとよりも多くのひとに会っているのだろう。だが自分に似ているひとにも多く会っている。その中でジストニアで苦しんでいるひとにもあっているし嗅覚を失っているひとにもあっている。若い頃の同病の彼女が首のジストニアで苦しんでいたし同病の友人も嗅覚を失っていた。

あまりそういうことについて考えることはなかったのだが私の世代には親が多重債務者だったひとが多い。私もそうだ。だが今付き合いがあるかどうかは別にして友人たちの中に親が多重債務者だった人たちが10人以上いる。ある時に「こんなにそういうひとにあって友達になるものなのかな」と思ったのだが。

相変わらずマーフィの法則の音声を聴いている。ずっと聴いていても聞こえてなかったところもあるのだ。最近「怒らない」ということに関して「大型犬が小さな犬から吠えられていても黙っtみているようなこと」という部分が聞こえてきた。

そうだとすれば怒りっぽいかどうかは感情の問題ではなく認識の問題だということになる。自己像セルフイメージの問題だ。

 

話が変わる。数年前にテレビ番組を観た。スポーツ一家のご長男に下のご兄弟たちが困っていた。ボクシングで有名な亀田家だ。専門用語を使うと混乱するので使わないが亀田家のご長男は「お母さんの役割」をやっていらした。そして下のご兄弟たちはみなさんもう精神的には大人になられている。(こういうふうになった後にもお金は必要なことが多いが)それなのにご長男はいままで通りに下のご兄弟たちの世話を焼いていた。それで下のご兄弟たちが困っていたのだ。

二回目だがこれは「役割」だ。

だが下のご兄弟たちがご長男にそういう世話に困っていたということはみなさん立派に成長されたということでご長男の「母親という役割」は見事に成功したということなのだ。そういう風になるはずの状況で下のご兄弟たちが「お兄ちゃんどうしようか」などと言っているようでは心配なのだ。

この話を書いたのは「べき的思考」というものがあるからだ。「やるべきことをやる」のは当然だ。「べき的思考」が強まると「〇〇したい」という感情(?)がなくなる。典型が食べ物だ。「時間だから食べなきゃ」というふうにしかならない。「肉を食べたい」とか「果物を食べたい」とか「甘いものを食べたい」というふうには思えなくなる。こういうコト(状況?)をさして「べき的思考」という。

ただお母さん業をやっている人たちはこういうふうになっているひとが多いはずだ。そういうふうにならないとお母さん業はやっていけないものだと思う。

私も両親(特に母親)の介護があった。介護保険や介護関係や医療関係の皆さんのお世話になりながらできる分だけをやっただけではあったのだが。

私も「べき的思考」に陥っていた。徐々に「べき的思考」から離れていった。さっき書いた亀田家のご長男だ。テレビを観た後に妙に心に残った。そして「このひとに好きなこと(ご自身の)をやったら良いんじゃないですか」というようなアドバイスをしてもあまり意味がないんだよなと思っていたのだ。それはマンガを読んだりゲームをしたりるようなことだ。

あの方はアスリートでもあるしそういうアドバイスをすると「わかりました。それじゃゲームを一日5時間やってマンガを一日4時間やって、週に一回くらい休みが入ったほうが良いと思うんですけど」という反応がかえって来そうだった。本当にそうなってもおかしくないのが「べき的思考」だ。

ただそうは言ってもそうなるくらいに努力をされたわけだからそういうことは尊重すべきだと思う。そういうご長男の努力を下のご長男たちはまったく何も思っていない。そしてそうなることが「子育てがうまくいった」ということではある。

私の場合は介護だったのだがやっぱり似たようなものだった。「年を取って疲れただけで自分にはなにも残らなかった」と実際おもった。そういうことから抜けるのに私は約10年かかった。

 

私は還暦だがいろんなことが(もちろん多くのイヤなことも)あって良かったかなと最近は思っている。ただこれは私が60才になって思っていることなので若い時にはこうんな風にはまったく思っていんかった。