世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

寺田虎彦 天災は忘れた頃にやってくる これをどう考えるか

論理的思考は重要だ。何故論理的思考が重要なのか。論理的思考には一般性があるからだ。論理的思考だったら知らないひととも話が通じるのだ。論理的思考ならコミュニケーションが取れる。だから論理的思考は重要だ。

考えてみたら寺田虎彦とも縁がある。寺田は漱石が「吾輩は猫である」でモデルに使っている。そして私は旧制五高が制度が変わって大学になった熊本大学の出身なのだ。中退だが。

「天災は忘れた頃にやってくる」という警句を普通は天災を忘れてはいけないという風に取る。そういうことももちろん重要だ。

だが私たちはどんなヒドイ天災であっても忘れてしまう。そういうものなのだ。

私は熊本地震を経験したがまさか自分が地震で被災するとは思ってなかったの。熊本地震はプレートが原因だったのだがそうではなかったとしても熊本には阿蘇があるし鹿児島には桜島がある。だから地震があるということを想定しているのが普通なのにまったくそういうことを考えてなかったと思って愕然とした。

関西もそうだ。阪神淡路大震災の前に関西のひとは「こっちは地震がない」と思っていた。実際あったのだ。

私たちはこういう風にいくら大きな天災があっても忘れてしまう存在なのだ。

 

だから天災に関して私たちは「自分が(自分の子孫が)まったく天災がくるなどと思っていない状況」をまず想定する必要がある。そしてそういう状況で天災がやってきた時に対応できるようにする必要があるのだ。

 

こういうことのヒントになるのは広島の市電だと思う。広島に原爆が落ちた後市電はすごく早く動き始めた。戦時中で男がどんどんいなくなって女学生たちが運転手までやっていたということもある。だが市電だったから原爆が落ちた後もすごく早く動かすことができたのだ。

サステナブルと最近いう。サステナブルの意味が私にはよくわからないが。ただこういうこともサステナブルだ。

 

天災と日本人 寺田寅彦随筆選 (角川ソフィア文庫)

実際寺田虎彦は関東大震災の後今の都会は多きな生物みたいだ。こういう都市は天災で大きなダメージを受けて回復が難しい。だから単細胞生物のような都市のほうがいざという時強いと考えている。

また日本家屋は修理を行うのが普通だ。台風が来るといろいろ修理する必要がある。こうう風に日常的に修理修繕が必要であれば、修理修繕になれているから、そういう風にしているのが強いのではないかとも考えている。

この考えは今でも重要な考えだ。

日常的に修理修繕が必要ならそういう技術を自分が身に着けてることもあるしそういう技術をもっている人たちが食べていける。だからそういう技術が絶えないのだ。そしていざという時にそういう人たちにお願いすることができるのだ。