こういうことは自分が宗教にズブズブだから言えることだ。旧統一教会の件があって宗教法人についで云々言われている。(これは曖昧な話だから違っていたら申し訳ない)宗教法人の認可を行うのは文科省だと思うのだ。以前に聞いた話では宗教法人として認可するポイントが3つあるのだそうだ。
①教祖(代表者)
②その教団の教え
③シンボリックなモノ
③のシンボリックなモノというのは鳥居だったりいわれのある石だったりする。こういうシンボリックなモノの意味がわからないからといって宗教法人として認可しないというのはおかしな話だ。
また②の教団の教えの意味がわからないから宗教法人として認めないというのもまたおかしな話だ。
そして①の教祖(代表者)に例えば犯罪歴があるようなことで宗教法人として認めなくぃというのもまたおかしな話なのだ。
そうすると実務レベルで宗教法人としての認可を問題することがおかしいといえばおかしいということになってしまう。
ちょっと話が飛ぶが保守とリベラル(というより右と左というべきかもしれない)にはいろんな意味がある。
これが孫引きなので曖昧な話だ。呉智英の本で呼んだ記憶がある。右と左の語源だ。フランス革命の時に国会(三部議会?)が開かれた。この時議会の左側(左翼レフトウィング)に急進改革派が集まり、議会の右側(右翼ライトウィング)に穏健改革派(というこてゃ旧守派)が集まった。これが右翼と左翼の語源らしい。
この考えを今の日本とアメリカに当てはめてみよう。
今の日本で一番右(右翼ライトウィング)に当たるのは共産党だ。共産党は今の日本で一番の穏健改革派で旧守派なのだ。それでは左は?となるとこれが良くわからない。
ついでアメリカに\この考えを当てはめてみよう。サンダースさんとトランプさんはともに左翼だ。左翼どころか二人はともに極左。あのお二人はお二人ともに極めてラジカルな改革派だからだ。
ここでいう右翼と左翼とは当然マルクス主義とは無関係だ。そして改革のビジョンの無関係だ。
問題になるのは改革に対する姿勢、態度だけだ。
ここからは右左とは書かない。混乱すると思う。
今の日本で(アメリカでも?)ある種の人たちが憎まれている。そういう人たちが穏健改革派、旧守派という意味なのであれば納得できる。たとえば「なんでも反対じゃないですか」と声がある。たとえば政治家やジャーナリストで反対しかしないような人たちが実際いる。ああいう人たちが穏健改革派で旧守派なのであればそうなるのは当然だ。
改革に対する姿勢、態度が穏健な人たちで改革に否定的なのが穏健改革派、旧守派なのだからだ。そしてああいう人たちのブレーキが無用で無意味だとも言い切れないのだ。
こう考えていくとこれはイギリス経験論と大陸合理論と対立のようでもある。田ぶん一般的にはイギリス経験論の立場を保守という。そして大陸合理論の立場をリベラルという。私がよく使うたとえだが保守とリベラルの態度を年賀状に対する態度で考えてみる。
リベラルは理性や合理性を重視する。だから年賀状に対して「年賀状廃止論」を唱える。年賀状のようなものは無意味だからやめよう。理由は理性的に考えても意味がないし合理性にもかけるからだ。
一方保守は「年賀状維持論」になる。年賀状にどういう意味があるのか不明だし自分で年賀状のようなことをやっているのは大変だしツラクもあるのだがいままでやってきたことをやめるのはどうかと思うからだ。
年賀状と今の日本の重要政策を同じように考えるのは不謹慎かもしれない。だが今の日本のある種の人たちは「〇〇維持論」なのだ。しかもその「〇〇維持論」の論拠が不明だ。だから多くの人がイライラしてしまう。それはもちろんごもっともな話だ。
「なんでも反対」というのは事実そうだからだ。
話を無理やりまとめると右や左、保守とリベラルという言葉の意味、保守とリベラルの態度や立場をあらためて考える必要があるのだ。
今書いてきたことでいえば「改革に対する態度」と「理性や合理性に対する考え方」が問題になるのだ。
話を戻す。こういうことを書くつもりではなかったのだ。日教組というところがある。日教組というと国歌と国旗(君が代と国旗)ばかりを問題にしている印象がある。実際どういう経緯でああいうことがあったのか私はわからないのだが広島で校長が自殺されている。本当にお悔やみ申し上げる。
ただ日挙措は労働組合だ。公立と私立ではそうとう違いはあるのだろうがずいぶん前から日教組の先生たちは他の先生たちから嫌われていたはずだ。
「奴らは働かない」という理由で。
だが日教組の先生たちは働いている。業務はちゃんとやっているのだ。
なぜそういうことになるのかだ。多くの先生たちは業務以外の膨大な仕事を長年やってきているのだ。
一頃win-winという言葉が流行った。ああいう言葉が流行ったことに意味や理由があったはずだ。私はよく意味を知らないでつかっていたがスィーブン・R・コビィの「7つの習慣」を読んで「そういうことだったんだ」と思った。
たとえばある店舗で地域社会や顧客のために必死で頑張ったとする。だけどそういう努力(たとえば値下げや価格維持の努力)のためにその店舗で潰れてしまうようなことがあればこれはwin-winではない。これはlose-winだ。
地域社会や顧客(つまり自分以外)のために頑張った結果自分が潰れてしまうのはおかしいではないかというのはごもっともなのだ。
私自身人のために結構頑張ってきた。そして責任感も強い方だと思う。だが全然報われていない。いままではそう思っていた。
でもひとのために努力することも責任感が強いことも本来良いことだ。
ただ学校の先生たちのように業務以外の膨大な業務をやってきている人たちがたくさんおいでになるのだ。こういう現状がある(長年続いている)以上「自分以外のために頑張る」ことも「責任感が強い」ことも良いことなのかどうかわからなくなっている。
これは日本の(アメリカもか?)の制度に問題があるのだ。そしてもう日本の制度が限界を越えている。実際教師になるひとがいない。当然だと思う。あんな過酷な労働条件で働けというのはそもそもムリな話だ。
この言葉のそもそも意味はよくわからない。「天の蔵」という。得を積んでこの世的なところではないところの蔵にたくわえるような意味だと思う。経験上天の蔵には実際貯えられるような気がする。
具体的にはAさんになにかしてあげたとする。だが基本Aさんからは何もかえってこないのだ。だがAさんとはまったく無関係なところからAさんの件とはまったく無関係なタイミングでかえってくる。こういうことが実際にあるのだ。こういうことが実際にあるということはやっぱり天の蔵なるものがあってそういうところには貯えられるということだと思うのだ。