世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

慣性と人生の葛藤

すべて敬称略です。

 

誰でも年は取る。成長が終わるのが21才22才くらいだろう。それから自己像はあまり変わらないのが普通だ。だから30代に入るともう自己像と実年齢(というのか?)の間に10年くらいの差があるものだ。実際30代中盤くらいの男女が「おっちゃん」や「オバチャン」を自称することがある。だがああいうことについて周囲が困ることもある。特に女性が「私はオバチャンだから」といっている時に「そんなことないですよ」という返しを待っていることがあるのだ。そういう期待があるよなと思うとそういうことを言いたくなくなってしまうことがある。

私が自分の年齢を感じたは40代だった。ジャクティンビーバーが変に嫌いだったのだ。


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嫌いというよりイラっとするのだ。しばらくして「そうかオレはオヤジだからああいうひとにイラっとするんだ」と納得した。日本でいうとギャル的なことにも原宿的なことにもやはりイラっとしていた。

そして「そうか。自分(というオヤジ)がイラっとするようなジャスティン・ビーバー的なことやギャル的なことや原宿的なことに未来があるんだ」と思った。

 

うまくいったテレビ番組の多くは(ラジオもおそらくそうだ)物理的に年齢が若いメンバーで作っている。出演者もスタッフも20代前半であるようなことが多い。30才くらいのひとがいるとずいぶん年上に感じるようなメンバーで作っている。

 

一頃のユーチューバーにそういうことがあった。ただ私はそういうユーチューバーの動画を観てイラっとしていた。それは私がオヤジだからだ。女性は年を取ってもまた地ぐあことが多い気がする。


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コムドットも本当に勝手なことをやっている。私が観ると彼らの動画にはイラっとすることが多い。

 

ただ彼らはこういうことが好きなのだろう。そうでなければ毎日毎日動画を上げてなどいられない。それは今となってはユーチューバーのNHKであるようなヒカキンもそうだ。ヒカキンがユーチューバーのNHIKだというのは彼の動画では悪い言葉や汚い言葉はあまり使わないし企画も安心して観ていられるものがおおいからだ。そういうことがあるからヒカキンは今となってはユーチューバーのNHKだし後輩のユーチューバーからは舐められているかもしれない。

これは余談になるのだがヒカキンは生き残ると思っている。ヒカキンにはなにもないからだ。ヒカキン以降の有名ユーチューバーにはみんななにかある。イケメンだとか頭が良いだとかスポーツが得意だとかとにかく何かある。だがヒカキンにはそういうなにか(スペシャルななにか)がない。

こういうことが根拠になるのかどうか不明だが私はそういうスペシャルなモノを何もないヒカキンが結局生き残ると思っている。コムドッチについては10年を超えるかどうかがポイントだと思う。10年一つのことをやり続けるというのはそうとうのことだ。そして10年間あることをやり続けていると「そういう身体」になる。こういうことが大きい。

私のことでいうとサービス業を10年やった頃になにかが変わっていた。別に前と同じようにやっているだけなのになにかがが変わっていた。あれは身体が変わっていたのだ。

 

吉本は10年物書きをやっていると腰が悪くなる。そしてそうなった頃に物書きで食べられるようになっているといっているのだ。

 

頭脳労働というといやらしいがそういう仕事でもそうだ。

 

こっちは慣性がかかって止まれなくなるようになるかどうかがポイントだ。上に書いたは加藤シゲアキのデビュー作だ。加藤もそう慣性がかかって止まれなくなっているようだ。そうならないと(いわゆる)頭脳労働では食べていけない。

余談だが古典的なコントのように作家は机に向かうのがイヤなものだ。漫画家も作曲家もそらく一緒だ。実際「元作家現タレント」と揶揄されている作家もいる。

音楽業界でいう一発屋の多くもそうだ。英語ではone hit wonderというらしい。評価を受けたり賞を取ったりヒットがでてるとお金も入るしチヤホラもされる。そうすると曲をかいたり楽器の練習をするよりも楽しいことたくさんできるのだ。だらら誰でもいったんはいろんな楽しいことをする。問題はその後また曲作りや楽器の練習の戻るかどうかだ。そうなるかどうかが一発屋かどうの分かれ道だ。だから大ヒットが出たあとにビッグヒットがでなかったとしても曲作りや楽器の練習をしている人たちは一発屋ではないのだ。

典型がKANだ。ビッグヒットは「愛は勝つ」だけだが良い曲がたくさんある。KANはなくなったがああいう仕事は仕事が残るから今後の評価は不明だ。おそらくいろんな良い曲が発掘されて評価を受けることになる。

 


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今私は慣性と書いた。これは北方健三が「三国志」を書いたあたりで明確に思った。

北方はすでにすべてを手にしたひとだ。地位も名声もお金もだ。北方は男性文学を書いて来た。その集大成として三国志を書くのは当然のことだった。だが北方は三国志(北方版)を書いた後に「水滸伝」を書いた。

なにもかもすでに手にしているのだから紀行文(?)というかどこかに旅行して「こういう食い物がうまかった」という文章を書いていても十分なひとだ。だがそうはしなかった。

私は「豪」を感じたのだ。豪というとおどろおどろしいが豪というのは慣性の法則のようなイメージなのだ。「あのひとはもう止まれないんだ」と思ったというのが「豪を感じた」ということの意味だ。

私ももう慣性がキキすぎていて止まれないのかもしれない。こういう人生が幸せなのかどうか不明だ。そして世間でいう楽しいことをもっとたくさんしたいという気持ちもあるのだ。そういえばさっき名前をだした加藤シゲアキが「結局小説のことを考えてしまっていて小説家がやめられなくなっちゃった」とどこかで言っているの聴いてそうとう意地悪い気持ちで「オメデトウ」と思っていた。

そういうことなのかもしれない。