学問にもトレンドがある。いくら事実と違うことでもあるトレンドの時は認められない。だからひとによっては発言を控える。そうしないとその発言が無視されるだけではなく、その後の発言権もなくしてしまうからだ。
フロイトの功績は大きいがフロイトは精神分析の対象を個人とした。日本では岸田秀が精神分析の対象を集団にした。
あまりにヒドイ屈辱経験があった時に自分が二つに分かれる。現実に対応している自分を外的自己とする。そして外的自己に対応するのが内的自己だ。
外的自己は現実に対応してはいるがどこか卑屈だ。そもそもの屈辱経験が受けれられていないからだ。
そして内的自己は誇大妄想的。そもそもの屈辱経験が受け入れられてないからだ。
これは一面そうだということだ。外的自己は進歩的文化人、内的自己はある種の右翼。日本人だったらみんな外的自己と内的自己をもっているし、外的自己と内的自己はスイッチする。日本人だったらそもそも両方もっているからだ。
今日本では保守(?)に流れている。これは保守というより内的自己に流れていると考えたほうがいい。外的自己から内的自己にスイッチしたのだと。
処方箋は単純だ。「そもそもの屈辱経験の受容」だ。
そしてやっとできる時がやってきた。岸田秀は黒船による開国がそもそもの屈辱経験だと考えていたのだが。やっとそもそもの屈辱経験の受容ができる時代になったのだ。
実は昔からいうのだ。「負けることは恥ではない。負けの認めないことが恥なんだ」と。今必要なのは開国は日本の負けだったのだということを受容することだ。
そして反復脅迫とも言っている。今屈辱経験と書いた。この屈辱経験は親子の間でも成立する。
最近「そうかもしれない」と思ったのは「男運が悪い女」だ。あの人たちは両親から屈辱を受けたんじゃないか思うようになった。
きっかけは「エヴェアンギリオン」だ。エヴェはイヴだが。
主人公のシンジのお父さんは妻も子供も利用するのが当然の父親の碇ゲンドウだ。この碇ゲンドウは「勝った父親」なのだ。
ゲンドウは妻も子供も犠牲にしている。
ある世代の日本の男は「勝った父親」だ。
さっき書いたように「精神分析の対象は個人ではなく集団」なのだ。
そしてこの世代の多くはバブル崩壊を受容できていなし。
やはり「負けを認められていない」のだ。
もうバブルジュニアが頑張っている。今の若い世代ハブルジュニアだ。
不愉快なことを(そうしたいわけではないのに)繰り返してしまうのが反復脅迫なのだ。
日本人はそもそもの屈辱経験を受け入れる必要がある。
それはそうしないと不愉快なこと(たとえば負けることを繰り返していまう。