「無反省で能天気な対立」 日本は戦争に負けたのです 自己セラピーの勧め
現代日本で「このひとが言っていることは重要だな」と私は考えている人たちには共通項があります。それぞれ議論の軸は違うのですが。
ただ全員「保守とリベラル」という軸では考えていないのです。
バカ男が死ぬほどいるようにバカ女も死ぬほどいます。普通の男がいっぱいいるように普通の女もいっぱいいます。そして一部立派な男と立派な女がいるのです。当然です。
特に保守論壇では立派な女性の活躍に私は目を奪われます。
この話はそういう話ではないのですが。
男であろうと女であろうとバカはバカです。普通は普通で立派なひとは性別を問わず立派です。当然のことです。
それが保守論壇であろうとも立派な人たちの議論の軸は「保守とリベラル」ではありません。
日本人の精神状況が違えば別なのですが日本人は精神状況がおかしいのです。
表面上対立している両者は実は同じ人格でありそれが分裂して対立しているように見えるだけです。
私が子供の頃からそれはまったく変わっていません。
たとえば「憲法論議」があります。故江藤淳さんは「廃憲論者」でした。江藤さんの「廃憲」というのは(これは私の想像ですが)「この議論に骨のずいまで疲れた。こんな議論なんか自分はしたくもないしかかわりたくもない。だいたい日本国憲法があるからこういう不毛でしかない議論を日本人は何十年もしているのだ」というお気持ちがあったからだと考えています。
私は現状の憲法がそこまで悪いものだとは考えていません。私が問題にしているのは憲法の内容contentです。
しかし改憲派だろうと護憲派だろうと(もちろんそうではない方もいますが)憲法の内容contentを問題にしていない場合があるとしか思えないのです。
これは改憲護憲を問わずです。
改憲論者は憲法の内容content以前に「あきらかに現行憲法を変えたがっている」としか私には思え(考えられ感じられ)ませんし護憲派は憲法の内容content以前に「とにかく憲法を守りさえすればいいとしか考えていない」としか私には思えない(考えられない感じられない)のです。
これは内田樹さんが辺境ラジオでおっしゃっていたのですがその内容はMBSのホームページのリンクを張っておきますので聞いてみてください。
2017年7月2日分です。
MBSラジオ1179ポッドキャスト | 内田樹&名越康文の 辺境ラジオ
日本の近現代史を考える上での日本の一番の問題は何なのかということです。
もちろん日本の敗戦です。
昔からこういうのです。「負けるのは恥ではないが負けを認めないのは恥だ」と。
確かにGHQが戦略をはりめぐらしてはいます。たとえば今の日本語で「国際連合」といいますがこれはもともと「連合国」の事です。多くの方が指摘されているように「終戦記念日」は「日本敗戦の日」です。
そこが日本人ノメンタリティの怪奇さで(そうするべきだということではなくそういう思考の流れは普通であり野蛮でもあるということで書くのですが)
「オレたちアメリカに代表される連合国に負けたよね。そのウチ見ていろよ。やり返してやる」と思うことは普通であり野蛮だということです。
そうではあるのですが「そもそも日本人の多くは自分の国が戦争に負けた」という屈辱的な事態を認めていません。
本当に認めていないのです。
事実日本は戦争に負けたのです。
その事実を謙虚に認めることは現代日本人にとっても本当に必要なことであるはずだと私は信じています。
二回目ですが「負けることは恥ではありません。負けを認めないことが恥なのです」。
今(2017年)でもそうだと私は観測していますが日本人は今だに「戦争に自分の国が負けたことを認めていない」のです。
「トラウマは事実の否認から発生する」のです(アドラーはトラウマを認めませんがその件については稿を改めます)
日本人の精神の怪奇さは二度の敗戦によるものだと考えるのが筋です。
一度目は開国です。二度目が大東話戦争における敗戦です。
この二回の屈辱でしかない近現代史を日本人が認めることが2017年の今でさえ日本人に必要とされていてその屈辱を認めることが出来ないがゆえに現代日本人はトラウマを抱えて複雑怪奇な精神状態にあるのです。
復讐は野蛮な行為です。おすすめしません。
ですが「日本人にとって二度の負け」という屈辱を認めることは避けては通れない道です。
セラピーという言葉があります。セラピーには痛みがともないますし苦しいものです。
ですがセラピーの痛みを通り抜けるとその後の日常生活が楽になるのです。
あなたに心当たりがあるようなら「自己セラピー」をお勧めします。
そうとう「痛い」のですが。