世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

統合失調症回復の記録 1

私は熊本大学中退だ。熊本大学は良い大学だ。だが「イヤ・・・」と思っていた。もちろんそういうことで威張る必要はない。それが学歴でもスポーツの経験であってもあるジャンルでのことであってもだ。

斉藤一人さんのユーチューブを観て「ああ」と最近思ったのだ。子供のころに保護者から「良い子じゃないと良い成績を出さないとガッカリされた」経験がある人たちは無限に良い子無限にいい成績を出そうとしてしまうといっていたのだ。それを聞いて「あぁ」と思ったのだ。それが学歴ではなくてもだが無限に良いなどということはそもそも存在しないのだ。だから破綻してしまう。

子供がよくても悪くても構わないというのはある態度だ。ウチの両親はクチではそう言っていたが実際は違っていた。テレビで慶応出身の女性が取材を受けていた。彼女は出身大学についてしつこく聴かれて「恥ずかしながら慶応です」といっていたのだ。私は「そういうことってあるんだよな」と思っていた。慶応でも「東大じゃないから」という風に思うひともいるのだ。それは私も同様だ。

だがたとえば私がその取材を受けていた女性が東大に行ったとしても「○○学部じゃないから」と思ってしまう。難しい学部だとしても「オックスフォードじゃないから」と思ってしまうのだ。でもオックスフォードに行ったとしてもやっぱり「○○じゃないから」と思ってしまう。

何故か?そもそも無限に良い何かを目指しているからだ。でも無限に良いということはそもそも存在しないのだ。無限に良いというのは完璧だということだが問題はそこではない。

子供のころに保護者からガッカリされたことなのだ。そしてそういう保護者はたいてい口では違うことを言っている。「私はあなたのことを信じている」のようなことだ。

 

話がまとまらないまま書くがウチの父親は子供のころ荒れていた。荒れている時の父親と優しい時の父親は別人みたいだった。それくらいに違っていた。

小学生の時い朝目を覚ますとマブタが開かない時があった。たぶん寝ている時に泣いていたのだ。その前後に吸血鬼の夢を見ていた。毎晩のようにその夢を見ていたのだ。だがその夢には吸血鬼は出てこない。だがその夢を死ぬほど怖い夢だった。その夢には家族や近所の人たちはいろいろ出てきていた。後で考えてその夢には父親だけが出てこなかったのだ。だからあの時あまりに怖かった父親(というより恐怖)を夢の中にも出てこないくらいに深く押し込んだはずだ。

今記憶がよみがってきたが母親が私がひどく小さい時に「お父さんがなんとかしてくれるから」と泣きながら言っていた。でもその直後に「あのひとに何ができるもんですか」といっていたのだ。母親もそういうあり方についてはバブルバインドという風に論点化している。ダブルダインドとは二重の拘束という意味だ。そしてダブルバインド統合失調症の原因だとされている。

両親を責めてこういうことを書いているわけではないが子供のころ私が電話に出て受け答えをしていると母親が遠くから大声で何か言っていたことがあった。この記憶も今よみがえってきた。その時私はウチの家の場所を説明していた。ウチの隣に青い瓦の家があった。それでウチの隣にお会い瓦の屋根の家があってといっていたのだ。そういう風に私が電話の受け答えをしていた。たぶん「こういう風にいった方がいい」という意味だったのだろうが母親は遠くから何かいっていた。

母親がそういうことをすると私はヒドク苦しかった。子供のころの話だが。

また思い出した。子供の頃母親と病院に行った。眼科だった。待っている時に私はトイレに行った。私がトイレに入っている時に呼び出しがかかったらしい。母親がドンドンとトイレのドアを叩いて私の名前を呼んだ。

やっぱり病院だ。どんどん記憶がよみがえっている。子供の頃に歯が痛くなった。前の晩に痛くて唸っていた。それで次の朝学校を休んで歯医者に行った。その時歯医者さんが「学校休んできたんだね」と笑いながら言ったのだ。まだ私は小学生だった。

歯痛はしょうがない。どうしようもないものだ。だから歯医者さんは「痛かったんだね」という意味でいったはずだ。でも私はその時そういうふうには思わなかった。

私は「実は自分は歯が痛くなかったのかな」と思ったのだ。「学校を休んで歯医者にくるほどには歯は痛くなかったのかもしれない」。そう思ったのだ。

実際前の晩歯が痛くてうなっていたのだ。だがもうあの頃には自分がうなるくらい痛くても自分が痛いのかどうかわからなくなっていた。自分の感覚に確信が持てなかったのだ。

やっぱり病院だ。子供の頃私はよく熱を出していた。たぶんそれで入院していた。やっぱり小学生の時だ。何か手術を受けた。これも今思い出した。

同室のお兄さんが何か冗談をいっていた。オバチャンがいた。同室だったのか。そのオバチャンが明日「手術なんだから腰かけてたらダメだって」といったような気がする。その日だったのか(夜だった)私はナースコールのボタンを押したような気がする。実際に押したのかどうかはわからない。私がナースコールのボタンを押して後に病院の廊下を看護師さんたちが何かを押して通り抜けていった。その時私は自分がヒドく悪いことをしたような気がした。そしてあなりに深い罪悪感を感じたので自分がナースコールを押した(のかどうかは実は不明だが)ことは誰にもいえないと思った。そして今までそのエピソードの記憶が思い出せなかった。

先日映画「エルビス」を観て思うところがあった。エルビスの父親だ。正直情けないひとだったのだ。

やっぱり子供の頃だ。私はやっぱり小学生だった。父親がカメラを買ったのだ。そして私と兄貴と従妹たちに写真を撮らせた。シャッターを押させただけだが。昔だからフィルムのカメラだ。その写真が現像されてかえってきた。その時父親が私がとった(シャッターを押した)写真が方向が違うのかピントがボケているといって笑っていた。だが私は「僕の順番じゃないからそれは僕の写真じゃないんだけど」と思っていたが言えなかった。「違うのに」と思ってヒドク悔しかった。この記憶も今よみがえった。

自分でいうのは口幅ったいが私は出来の良い子供だった。私が子供の頃から父親は私をライバル視していたところがある。というより精神的に未熟なところがあるひとだったのだ。それは両親ともにだ。祖父母もおそらくそうだった。

自分が出来るからウチはうまくいかないんだとどこかいつも思っていたのだ。

妄想は一面物語だ。精神疾患があって妄想があってもそういう妄想を100%信じているひとはあまりいない。そういうひとがいたとしてもその物語を誰かにいうことはあまりない。理由は恥ずかしいからだ。

私には子役でうまくいって稼ぎが父親よりあるという理由で家庭がボロボロになってしまうという妄想の物語が付きまとっていた。こういう風に書くと「それってクリエイティブなんじゃないの」というひとがいるかもしれない。たしかにクリエイティブかもしれない。だが変にこういう物語が付きまとっていたのだ。

考えてみたらその物語は当たっていたのだ。

あれはフィクションだが映画「スタンドバイミ」を観ても楽しめなかった。スティーブンキングの原作を読んでもだ。ただ物語の語り手の少年が物語をかんがえていることには共感していた。あの映画や原作小説みたいな少年時代を実際送っていたのだ。

スタンドバイミーの中で少年が嘔吐するエピソードが出てくる。それは語り手の少年が作った物語だった。ホットドッグの早食い大会に出た少年が嘔吐する物語だった。子供の頃実際に私の友人が嘔吐したことがあったのだ。

幼なじみたちも事情がある家の子供が多かったし彼らともう会うこともないのだろう。

これも今思い出したが子供の頃学校でボヤが出た。それが私のせいになってしまった。私はやっていないのだが。ただ取り調べで私が泣いて自分がやったといってしまったのだ。その件があってからその警察署の側に来ると怖くてしょうがなくなっていた。母親の実家に帰る時にバスでその警察署のあたりを通るのだ。その前に私は目を閉じて眠るようにしていた。あまりの恐怖だったのだ。

この記憶も今よみがえった。

そのことは家の中で触れてはいけないエピードになっていたんだ。だがある時に両親に「あれは自分はやってないんだ」といった。もう私は40歳くらいになっていた。すると父親は「お父さんは言ったんだ」と答えた。私は「どうせ怒鳴りつけたんでしょ。そんなことしたら余計に疑われるじゃない」といったんだ。

この記憶も今よみがえった。

すると父親は黙っていた。

私の世代で自分がおかしいんじゃないと思って自分で精神科に行ったというひとはあまりいないはずだ。だが私は自分から精神科に行っている。最初は大学の保険管理センターだった。次は当時は家電でまだ分厚い電話帳があった時代だったから自分で電話帳で調べて精神科の総合病院に自分で行った。

そういうこともしょうがないと思っていた。家族を頼りにしたかったが頼りにはならない。

映画「エルビス」でエルビスがマネージャーのカーター大佐ともめた時にエルビスの父親が「オレがなんとかする」という場面があった。エルビスは「いいよ」という。

私の父親も口ではそういうことをいっていた。「オレがなんとかする」というようなことだ。だがそれは口だけだ。

やっぱり世の中に偶然はないのかもしれない。30代だったのかな。私は当時頑張っていた。それでナポレオンヒルの教材を買った。そうとう高価なモノだったが。私はジグジグラーの教材を買った。この記憶も今よみがえった。

そこで購入者の集まりがあって心理学者の富田隆さんの講演があったのだ。その時富田先生はウォルトディズニーの話をしていた。ウォルトには家に引きこもっていた時期がある。50歳くらいだと思う。その前に差別描写がある映画を作ってその映画は公開できなかった。会社のスタッフはストライキを起こしてウォルトディズニーカンパニーは倒産の危機だ。その時にウォルトは引きこもって実際の乗れる汽車のオモチャでウォルトは遊んでいる。富田先生が子供の頃にその時のウォルトの表情を観て「こんなに喜ぶものなのか」と思っていたのだ。心理学者は子供の頃から心理学者だ。それくらいの異常なくらいのうれしい表情だったのだ。そのことは富田先生の講演を聞いて知ったのだが。

ウォルトの父親はヒドイひとだった。ウォルトには兄弟が何人もいたのだが他の兄弟は耐えられなくて全員逃げてしまった。ウォルトだけが逃げなかったらしい。後でお兄さんが一人かえってきて、そのひとが実施ウォルトディズニー社の経営者だった。映画監督とプロデューサーみちいな関係だったらしい。他の兄弟たちがどうなったのかは私は知らない。

日本では松山千春がこういうことと近い経験をしている。

千春がラジオで「兄ちゃんがミカンの缶詰が食べたい」といいながらなくなったといっていたのだ。私も子供の頃ミカンの缶詰が好きだった。あれが冷たくて柔らかくて甘くて好きだったのだ。その話を聞いたのは私は10代だったのかな。そしてそれから松山千春のラジオが聴けなくなってしまった。

 

こうやって私は治っていくんだ。こんなことがあるんだ。

 

私は子供の頃からおかしかった。子供の頃ヒドクいじめられている。3歳くらいの時だ。年齢もあってその記憶はあまりない。でもあんまりヒドかったからバアチャンが言いに来た。イジメていたのは小学校高学年の子もいた。こっちは3歳くらいだったはずだから身長が私よりひどく大きかった。

この記憶も今よみがえった。そしてその時兄貴もいたはずだが兄貴の記憶がない。

その時の同い年お幼なじみがいた。彼のお母さんがドーナツを揚げてくれた気がする。

その頃遊んでいた場所に行くのに多分角を曲がる。その角を曲がって目の前に道がある夢を見ていた。夢の内容が問題なわけではない。そうじゃなくてその先でいろいろあったというエピソードが夢の中にも出てこなかったことが重要なのだ。

それだけじゃなくて祖母に助けられたことが私には屈辱だったのだ。恥ずかしかった。

祖母から助けられたことが恥ずかしかったのではない。そもそも恥ずかしい自分だと思っていたのだ。その時のイジメられ方があまりにひどかったから、しばらくバアチャンと兄貴と私と3人で遊んでいた時期があった。

このことも今思い出した。交通公園という公園があったのだ。しばらくそこで3人で遊んでいた。その時その公園で遊んでいた子供たちがいてバアチャンが「お兄ちゃん遊んでって言わなきゃ」といった。

どんどん記憶がよみがえっている。まだ幼稚園にも行ってなかったはずだ。でも兄貴はあの時何をしていたんだろう。そのことについては考えないようにしてきた気がする。