右も左も似たようなものだとしか思っていなかったのだが左は異常に嫌われている。
なぜだろうと思っていた。
「知識は富だ」と言ったのは吉本隆明だ。
工業高校で日本の古典文学を教えている教師から「ウチの学生たちは古典とは無関係な仕事につくのでそういう学生たちに古典を教える意味がわからない」という質問があった。それに対して「知識は富だからあなたは学生たちを富ませています。お金を配っているのと同じだかからそういうことに遠慮することはない」と吉本が答えたエピソードから私が言っているのだが。
この問題(イシュー)は意外に広がりが大きい。私自身お金はずっとないのだが知識はある方だ。知識のお陰で今までなんとかなってきている。だから「知識はお金程度には役に立つ」といっている。そして「知識はお金程度にしか役に立たない」とも思っている。
そしてお金と知識の意味が似ているとするとお金に関して「成金趣味」があるように知識に関しても「知識成金趣味」も存在する。このあたりに関しては昔田中康夫が指摘している。
田中はいわゆる知識人がブランド物をありがたがることをバカにしているのだがそういう知識人たちがある賞をありがたがったりある出版社から本を出すことをありがたがることの意味は一緒ではないかと指摘していた。このこともついてもいろいろあるのだがそこは飛ばす。
あまりに大きなハイブランドのロゴやマークが入っているがバッグや服を持ち歩くのはちょっと恥ずかしい。だが最近アテツケのようにそういうことをしている人たちもいて、そういう人たちは今となってはむしろ好ましいのかしれない。すくなくとも私には好ましく思える。
お金に関して日本はそういう状況になっているようだ。
そして今の日本では「知識という富」に関して私達はどういうふうに振る舞うのかを問われている。今の日本はそういうステージにいる。
文系理系の知が対立していることもある。理系からすると「漱石ウンウン」といわれるとイラっとすることがあるようだ。先日カフェで大学生たちが数学の話をしていた。その内容はわからなかったが私はただ聴いていた。だが周囲の客はちょっとイヤそうだった。
芸術関連でもこういうことがある。普通に考えると意味がわからない現代美術をみて「キレイ」といっているひともみてイラっとしている人たちがいる。というよりたいていのひとはイラっとしているはずだ。
もっと身近な例だとカフェでノートパソコンを開いているひとを観てイラッとしているひともいる。ブラインドタッチでキーボードを叩いているひとを見るだけでイラっとしているひともずいぶんいるのだ。
こういうことはすべてどこか(本人たちは自覚していないのだが)ハイブランドのロゴが大きく入ったバッグや服をこれみよがしに持って居る(あるいは着ている)ことにとても似ているのだ。
こういうことを無自覚にやっているのがいわゆる左なのだ。しつこいが「知識はお金程度には役に立つ」し「知識はお金程度にしか役には立たない」ものではある。
昔「卒業旅行でヨーロッパ一周に行く」とかいっていた友人がいた。私は別に何もいわなかったが内心どんよりしていた。私にはそんな余裕はなかったからだが。知識に関してもそういうことに関する配慮は必要はなるのだろう。
二回目なのだが左の「知識成金」ぶりが無自覚なのだ。具体気にどうすれば良いとはいえないがまず「自分がいっているコト(やっていること)にイラっとするひとがいる」ということを自覚することから始めるのが筋だろう。
「知識は富」だからだ。