私は浄土真宗の信徒で生長の家の師友だ。生長の家は改宗しないタイプの宗教だ。ただ生長の家は長年極右だった。この件については正直「弱ったな」という気持ちだった。私はあまりに不幸が多すぎてそれをなんとかしたいと思って生長の家の師友になっただけだったからだ。生長の家は親戚からまわってきたのだが。
ただ当時私も若かったしいろんな問題を自分だけで抱え込んでなんとかしようと思っていたら危ういことになっていたかもしれない。
生長の家では現世利益を普通にいう。それには教理があってもことだ。生長の家の教理では現象界(物質や肉体、ある意味ではココロも)はないと考える。そもそもそういうものはないからそういうものが増えようが良くなろうがどうでも良いということになる。こういう教理である以上現世利益についてはいくらでもいうことができる。
それはともかく現世利益をいう宗教の場合は本人の不幸がならない場合に「もっとあれをしなさい」といえる。そういう問題点もある。ただすでにそういう宗教をやっているひとが(いわゆる)不幸である場合には説得力がないということもあるのだ。
それで旧統一協会の話だ。昔から宗教に熱心な家は不幸なことが多いとはいう。そうだとしても旧統一協会関係者には不幸なひとが多すぎる。正直一般の信者さんのことは私は知らないのだが。
勅使河原さんがそうだ。久しぶりにマスコミに登場したら日本中からボコボコに叩かれている。それにあのひとは奥さんからも逃げられているはずだ。
これは普通は不幸なことだ。
また教祖の家族もそうだ。お金もある家だからもめることもあるだろうが。それにしたってあんなに家族でもめているのだ。アメリカに渡った息子さんの怒りと悲しみはいかばかりかと思う。だからと行って彼がやっていることが許されるとは思ってはいない。
ただこういうことは普通「不幸」なことだ。
こういうことにはいくらでもイヤミは言えるがそれはやめておく。
ただやっぱりスグにはこういうことはわからなかった。
オウム真理教もそうだった。オウムは正直バカにされていたのだ。バカにされていたというか人を殺すようなことをするほどの集団ではないと考えられていた。バカにされていたというよりも軽んじられていた。
「しょせん若い連中の遊びみたいなモンなんでしょう」というふうな受け止め方が一般的だったのだ。オウムがそういう集団ではなかったと多くの日本人が知った(認識した)のはずっと後のことだったのだ。
だから旧統一協会も早い段階で問題があると認識することは誰にとっても難しいことだった。
でもオウムや旧統一協会にかかった人たちにまったく罪(?)がなかったとはいえない。それはそうだ。
ただ私は浄土真宗の信徒のままだが生長の栄の師友になっている。このことを家族は知っているし(だいたい親戚から回ってきたものだから)友達にも知っているひとが多かった。
友人の中には「そういうのは辞めてだな」というヤツもいた。「そう言われるのもご最もだ」と私も思っていたのだ。「でも不幸が多すぎて神信心くらいないとオレはキツイんだよ」と思っていた。
ただそれが宗教ではないとしても家族や友人のような(ここではこう書くが)コミュニティから離れて、違うコミュニティに入ることには問題がある。
血縁地縁や他の縁との縁、あるいはコミュニティを維持したまま、そういうコミュニテイに入るのならそんなに大きな問題はないと思う。
でもそもそもある種のコミュニテイで浮いている人たちがどうも大量にいるようだ。コミュニテイにうまく所属できないというか。
このことを私たちは問題(問題というより論点)にすべきなのだ。