さっき思った。「寒いんだけど」と。体感幻覚という。体感がおかしくなるのが体感幻覚だ。私は冬場で世間のひとがコートを着ている時でもシャツ程度で平気だった。介護系の仕事をしている友人は「気にしなくていい」といっていたが私はそういうことが恥ずかしくてイヤだった。
今エアコンが効いている部屋にいる。寒いというと大げさかもしれない。病名にはあまり意味はないが。
フランクルの「夜と霧」という本がある。
フランクルは心理学者だ。戦争中に強制収容所に送られている。フランクルは心理学者として冷静に事実を記述している。カポーというユダヤ人で同じユダヤ人の監督をやる連中がいた。カポーが一番残虐だったそうだ。これは差別の構造ではある。差別をするだけの連中はそこまでひどくはない。差別を受けているものの差別が一番ヒドイものなのだ。
強制収容所の中はチケット制だった。チケットがあれば酒を飲むこともできた。だがある人たちは自暴自棄になってチケットをパッとつかってしまう。すると死しか待っていない。だがある種の人たちはそれが分かっていてもチケットをパッと使っていた。でもそうはしなかった人たちもいた。フランクルは心理学者として自分も含めて生き残った人たちと亡くなった人たちとはどこが違っていたのかを考えている。
ある時唐突に開放される。その時フランクルたちは離人症に陥っていた。喜び嬉しさ楽しさが感じられないのだ。「感じてはいるが感じられない」のが離人症だ。確かにフランクルたちは喜び嬉しさ楽しさも感じられなくなっていた。夢にまでみた強制収容所生活が終わったのに喜べないのだから。だがということは苦しさ厳しさも感じなくなっていたはずだ。
私も含めてメンタルを若いころから病んでいたのになんとか働いてこれた人たちがいる。こういう人たちには共通項がある。働く時間が一般的ではなかったのだ。夕方から働くと夜中に起きて夜中から働くような働き方をしてきた。
入院生活をきっかけに夜の8時や9時には寝る生活になったひともずいぶんいる。大人が夜の8時や9時に寝るのはそうとう早い。もっと夜早く寝るひともいる。そうすると夜中に起きてしまう。そういう時間帯の仕事を私たちはやってきている。
ある種の漁師やパン屋はそういう時間帯の仕事だ。夜中に起きる仕事なのだ。
「早起きは三文の徳」という。これは農業の話だ。今の日本では農業就労人口は就労人口の中では1割もいない。
いろんな時代区分があるが「狩猟社会→農耕社会→工業社会→情報化社会→ポスト情報化社会」という時代区分もある。この時代区分でいうと今は情報化社会からポスト情報化社会への移行期だ。だが今の宗教は農耕社会がベースになった宗教だ。
日本は大変だ。いろんな変化が一気に起きているからだ。悪いことも多い。だけど一方で村上春樹のように日本の作家が外国語に翻訳されて海外で読まれることは今は普通だ。こういうことは20年前には一般的ではなかった。
情報化社会をソフトウェア産業社会だとすると小説もソフトウェアなのだ。
日本がこういう大きな変化を起こしているのだが宗教も当然問題になる。情報化社会やポスト情報化社会にあった宗教が必要になっている。
私は浄土真宗の信徒で生長の家の師友だ。いわば自分が宗教にズブズブなので違う宗教のひととも付き合いがある。ある時期の日本では創価学会が強かった。創価学会は高度経済成長期に伸びている。高度経済成長期が工業社会だとすると創価学会は工業社会の宗教だったのだ。そして事件そのものは不明だがオウム真理教や幸福の科学の世代の宗教は情報化社会の宗教だとも考えられる。旧統一教会がどこに当てはまるかは不明だ。
こういう社会の変化(狩猟社会→農耕社会→工業社会→情報化社会→ポスト情報化社会)という社会の変化と宗教問題はリンクしていると考えるのはそんなにおかしくないはずだ。