序
EテレのハートネットTVで「マイノリティと笑い」(ここは曖昧なのですが)という番組を放送していたのを私は見ていました。
いつものアナウンサーの方はちょっと引いて千原ジュニアさんが司会をされていたのですが、その時に同性カップルには部屋を貸さない大家さんがいるという話題が出ていたのです。
その件について私はしくこく考えていたのですが『「知らなない」ということと「どう扱えばいいのかわからない」というが原因だ』と考えるようにました。
知らない、わからない存在への恐怖
いま(2017年)でいうと北朝鮮です。普通の日本人は北朝鮮が怖いはずです。
この「恐怖の理由」があなたにはわかりますか?
「知らないから」「わからないから」です。
北朝鮮に関するニュース映像で日本で手に入るのはあの国のほぼトップの動画とあの国の怖い女性アナウンサーの動画だけのはずです。
結果普通の日本人は北朝鮮について「知らない」し「わからない」のです。
あなたの日常生活の中でも一番怖いのは暴力団関係者ではなく「どこがこのひとの地雷なのかがわからないひと」であるはずです。
いまの日本人にとっての北朝鮮はそういう存在です。
昔オウムの連中のことで日本中が大騒ぎになったことがあります。あの頃に「オウムの信者が警察官の方にも自衛官の方にもいるらしい」と知って私はとても怖いと感じました。
でも私はその件に関して何を恐れていたのでしょうか。
もう当時オウムは社会問題になっていました。だから警察や自衛隊のオウムの信者がいてそういう人たちが周囲の警察官の方や自衛官の方に布教したとしてもそこまでの広がりがなかったはずです。
でも当時の私がオウムに自衛隊や警察が支配されるのではないかと、どうやら思って(考えて感じて)いたようなのです。
そんなことはあり得ないのに。
あるいは警察官や自衛官の方々はいつもではないのでしょうが拳銃をもっています。当時の私はオウムの信者が唐突に同僚や上司を射殺するのではないかとも思って(考えて感じて)いたようなのです。
そんなことはあり得ないのに。
いま私が挙げた二つの例で私の発想は飛躍しています。
同性カップルの入居を断る大家さんもやっぱり発想が飛躍しているという想像を私はしているのです。
たとえば「そういう連中って覚せい剤をやってるんじゃないのかな」という風にです。
事実覚せい剤をやっている同性カップルもいるのでしょう。でも同性カップルと覚せい剤の間にはほぼ相関関係がないのです。
こういうことが私がいう「発想の飛躍」です。
接し方、扱い方、立ち居振る舞いがわからないという問題
もう一つは「立ち居振る舞いがわからない」という問題です。
それがだけが原因ではないのでしょうが日本は国土面積中に森がしめる割合がとても広い国です。
それは宗教の一面なのです。
たとえば山に登る道に鳥居があったりします。あるいは樹齢数百年の樹にはしめ縄がまいてあります。
鳥居があれば「頭を下げようかな」とかしめ縄があれば「柏手を打とうかな」と言う風に立ち居振る舞いが「出てくる」のです。
ある車いすに乗っている男性がある言葉をかけられて答え方がわからないといっていました。彼がいっていたのは「大丈夫ですか」と言われて答えがわからないから困るということなのです。
彼がいっていたのは「そもそも大丈夫だから街にいるのだし大丈夫じゃなかったらそもそもここにはいない」と思うから答えに困るということです。
その番組の司会は千原ジュニアさんでした。ジュニアさんはテレビに出ている有名人です。
ジュニアさんと私が世間話をする機会があったら私は「固まる」と思うのです。
「このひとはテレビでよく見ているひとだよね。どういう風に接すると良いんだろう」と思って(考えて感じて)「固まる」と思うのです。
結論は「普通に接すれば良いだけ」なのですが。
ある種のマイノリティと接する時に「このひとにどう接したらいいのだろう」という疑問を持つのは当然です。
「接し方がわからなくなる」のです。「立ち居振る舞いがわからない」ともいえます。
啓蒙運動の意味
こういう問題を私はスッテプバイステップ(一歩ずつ)解決していくのが適切だと考えています。
たとえばLGBTの友達や親戚が一人いればそれは「知っている」ということになります。
私はそういうことはしたことがないのですが目が不自由な方が人ごみの中にいたとしたらたとえば私はそのひとと左側にたって「私はあなたの左側にいます。もしよかったら私の肩か腕を触ってくれませんか」といいます。
男子中学生高校生が遊びで突然友達の背中がパンと叩いたりします。叩かれた方はビックリします。
目が見えようと見えまいといきなり自分の体を誰かが触ったら驚くのです。
そういう「扱い」であるとか「立ち居振る舞いの方法」がわかるの楽なのです。
そういうことを伝えることを「啓蒙運動」と呼ぶのかもしれません。