世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

異界〰語りえぬ領域 まず精神疾患について

どうやら私たちには語りえぬ領域がある。それは性愛、死、精神疾患、子供のような領域だ。だからといってこういう事柄についてやりたい放題だと考えているわけではない。

 

精神疾患についてまず書く。

狩猟社会ではトップが二人いるのが普通だ。これは世界的な事だ。一人は実務の責任者でもうひとりはシャーマンだ。日本の場合(日本といっても複数の文化が共存しているのではあるが)シャーマンは女性がやることが多いようだ。

邪馬台国卑弥呼もシャーマン。(邪馬台国大和朝廷につながるのかどうかは私にはわからない)。

また古事記日本書紀で物語は違うのだがヤマトタケルの叔母に当たる倭姫命(やまとひめのみこと)は伊勢神宮との関わりが深く、この方も意味としてはシャーマン。ヤマトタケルの父親が実務をつかさどるトップなのだ。

この時期には(もちろん神話ではあるのだが)日本でのシャーマンの地位が落ちていると考えられる。

シャーマンはよくわからないモノが見えてよくわからないモノが聞こえる存在だ。これは今の考えでいうと幻聴が聞こえて幻覚が見えているということになる。つまりシャーマンは今の考えでいうと精神病者なのだ。だが狩猟社会(特に狩猟社会だが)ではそういうこと(幻聴幻覚以外のことであっても)意味があると考えらていたからシャーマンと実務を司るトップの二人で統治するのが普通だったはずだ。

 

こういうことはトッピなことで今の人間や今の社会には無関係だと思うひとが多いはずだ。

私も長く精神を病んでいて今回復中だ。精神を病んでいるひといは時間のサイクルが違う。夜型になったりひどく早起きになったりする。

同病の友人が子供の頃の話をしていた。彼は小学生の時に夕方に起きて朝だと勘違いした。私もまったく同じ経験があるのだ。

昔アニメの「ちびまる子ちゃん」を見ていたらちびまる子ちゃんにまったく同じエピソードがあった。あれはたぶんさくらももこの実体験だ。


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日本民族学の父柳田国男新体詩を書いていた。柳田が書いた新体詩に夕方に目を冷まして、もう一度夢の中に帰りたいと願うものがある。

多くの作家や学者やミュジシャンや芸術家は夜型だ。

彼らは「自分が夜型だから」というが世間のひとは「みんな朝は眠いけど起きてるんだよ」と思うはずだ。でも彼等は夜型がどうしても治らないのだ。

 

いっぽう早朝型の人たちもいる。こっちはビジネスエリートに多い。朝の5時にはもう出社しているような人たちもいるのだ。精神科への入院経験を経て早朝型になったひとも多い。彼等は夜の8時や9時には寝てしまう。

私は子供の頃から早朝型だった。学校から変えるととりあえず寝ていた。

 

問題は時間のサイクルのずれだ。それが夜型になっているのか早朝型になっているのかは問題ではない。こういうことから考えるとシャーマンと精神病者という話はそんなにトッピな話ではなくなってくる。

 


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そうういう観点で(精神疾患の意義や意味という観点)で考えると魔女の宅急便はいろいろな要素がある。

この物語の中に絵描きの女性がでてくる。彼女は夜型のような気がする。彼女はだいたい森にいる。

そして主人公が下宿するのはパン屋さんだ。パン屋さんは深夜に起きる仕事だ。だからずっと深夜勤勤だともいえる。だから早朝型なのだ。そもそもパン屋は早朝型のひとでなければ難しい仕事かもしれない。

そしてキキのお母さんだ。お母さんというよりお母さんの仕事なのだ。キキのお母さんも魔女だ。そしてキキのお母さんの仕事の一つは明らかに薬剤師なのだ。この映画を見て「魔女って薬剤師なんだ」と私は納得した。

薬剤師というか薬局のオバチャンだ。薬局のオバチャンあいてだったら顧客はそうとう生生しい話をする。病気関連のことになるからそれは当然そうなる。

原作は私は未読だが「魔女の宅急便」には精神疾患やシャーマンの要素が本当に多いのだ。

 

そして今私が書いて来たことから考える(時間のサイクルのずれ)とシャーマンと精神病者とは親和性が高いと考えられるはずだ。

 

余談だが私も私の同病の友人たちで病状が悪かったのになぜか働いてきた人たちがいる。私たちは病状がひどかったのになぜか働けたというべきだろう。一面私たちは子供の頃から不遇でなんとかしたかった。つまりモチベーションが高かった。それはそれで事実だ。でもそれだけではない。私たちは朝から夕方までのような仕事はあまりしてこなかったのだ。夕方から深夜とか深夜から朝までのような時間サイクルの仕事をしてきている。