世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

新潮45 小川榮太郎「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」から考える

新潮45杉田水脈議員のLGBTに関する文章のへの批判に答える形で新潮45杉田水脈議員を擁護する特集を行った。

 

ハフポストで小川榮太郎の記事を取り上げているのだが

 

痴漢とLGBTの権利をなぜ比べるのか。「新潮45」小川榮太郎氏の主張の危険性、専門家が指摘

 

小川榮太郎は文芸評論家らしいのだが専門はなんだろう。

 

これはウィキペディアからなのだが。

-----------------------------------------

著書
単著
『約束の日 ―安倍晋三試論―』(2012年、幻冬舎、のち文庫)
『国家の命運 ―安倍政権奇跡のドキュメント―』(2013年、幻冬舎、ISBN 9784344024014)
『『永遠の0』と日本人』(2013年、幻冬舎新書〉、ISBN 9784344983328)
『最後の勝機(チャンス) ―救国政権の下で、日本国民は何を考え、どう戦うべきか―』(2014年、PHP研究所、ISBN 9784569812786)
『一気に読める「戦争」の昭和史 1937-1945』(2015年、ベストセラーズ、ISBN 9784584136676)
小林秀雄の後の二十一章』(2015年、幻冬舎、ISBN 9784344028067)
天皇の平和 九条の平和 ―安倍時代の論点―』(2017年9月、産経新聞出版、ISBN 9784819113182)
『徹底検証「森友・加計事件」 ―朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪―』(2017年10月、飛鳥新社Hanada双書、ISBN 9784864105743)
『徹底検証 テレビ報道「噓」のからくり』(2017年11月、青林堂、ISBN 9784792606077)
共著
宮崎正弘 『保守の原点 ―「保守」が日本を救う―』(2015年、海竜社、ISBN 9784759314090)
上念司『テレビ局はなぜ「放送法」を守らないのか ―民主主義の意味を問う―』(2016年7月、ベストセラーズ、ISBN 9784584137291)
足立康史『宣戦布告 ―朝日新聞との闘い 「モリカケ」裏事情から、在日・風俗・闇利権まで、日本のタブーに斬り込む!―』(2018年3月、徳間書店、ISBN 978-4198645717)

@`.主な論文に「福田恆存の『平和論論争』」、「川端康成の『古都』」などとされているが、掲載元がわからないと指摘されている
-------------------------------

こういう仕事をしているのに文芸評論家という職業名称を使っている。気持ちはわからなくもないが。福田恒存江藤淳も文芸評論家なのでそういう皆さんへのあこがれなんだろう。でも福田恒存江藤淳みたいになりたいからって福田恒存江藤淳と同じ職業名称を使ってしまうのはまだ早いと思う。文芸評論でそれなりの実績を上げてからの方が適切だと思うのだ。今はジャーナリストか評論家でいいと思う。今までの仕事からすればそう名乗るのが普通だ。

 

まず小川榮太郎の寄稿文のタイトルだ。

 

「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」なのだ。

 

小川は文芸評論家なので漱石は読んでいると思う。

 

1、漱石草枕で考える「生きづらさ」

キンドル草枕は入れているし冒頭3行は中学時代の恩師園村昌弘先生に暗唱する指導を受けたので今でも諳んじて(そらんじて)いるが。

 

草枕」の冒頭の記述から漱石が考えた「生きづらさ」を考えてみよう。

 

---------------

山道を登りながら、こう考えた

智にはたければ角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

--------------

本当にそうだ。漱石の思索は当然続く。

-------------

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。

------------------

小川氏の文章のタイトルは「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」だ。漱石は「住みにくい」とは書いている。でもニュアンスは「生きづらい」という意味だと思う。小川氏がいうように「生きづらさ」を「政治」が救うと考えるのは違うと漱石も(そして私も)考えている。

 

ただ漱石はアートのモトを「生きづらさ」だと考えていたようだ。こういうところが漱石が国民作家であり続けている原因のように私には思えるのだ。「生きづらい」としか思えない状況だとしても全員が表現活動に向かうわけではない。

 

同じく漱石の「門」の一説だ。

---------------------------

彼は依然として無能無力に鎖された扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別を便りに生きてきた。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく思った。そうして始めから取捨も少量も容れない愚かなもの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、智慧も忘れ思議も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。

(略)

彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

-------------------------

宗教とはなにかという問題はある。宗教の定義は私には不可能だ。ただ漱石には宗教的救済への憧れや宗教に向かう人々への敬意はあるのだけれども自分の「分別」がどうしても邪魔をして宗教的救済への道へ向かうことができない自分への口惜しさや歯がゆさがある。そして「愚かさ」(これは良い意味だ)が心底うらやましいと思うのだ。

 

そして自分は「門を通る人ではない」でも「門を通らないで済むひとでもない」。「門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人だ」と考えているのだ。

 

姜尚中が「悩む力」で漱石を取り上げていたのは当然だと思う。

 

悩む力 (集英社新書 444C)

悩む力 (集英社新書 444C)

 

 また「草枕」に戻る。

-------------------

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

-------------------------

悪いのだが、ああいうことを殊更に書く杉田水脈議員にも小川榮太郎氏にも「人でなし」感がある。「人でなしの国」がどういうものか私は知らないが私は「人の世に住む人」でしかないので「人でなし」でしか書けないような罵詈雑言は「人でなしの国」で「人でなし」同士で使ってほしい。あまりに感情的でひとをイヤな気持ちにさせる文章は「人でなし」でないと書けないと思う。

 

私は文章の主旨や主張が正しいとか間違っているとかそういうことは問題にしていない。ただただ下品だといっている。

 

2、歯がゆい時代

ただ小川榮太郎の考えは尊重する。小川は「生きづらさ」を政治的課題にするのは筋が違うと考えているらしい。それはそうだと思う。

 

これは今の日本に暮らしている人ならほぼ全員が感じていることだと思う。(もちろん私もそうだ)

 

「歯がゆい」。

 

学研国語辞典第二版によると

 

歯がゆい 思い通りにいかなくて心がいらだつ状態である

 

とある。

 

以下は私の小川榮太郎の文章の意図的な誤読だ。こういう誤読を前提として文芸評論家が文章を書いてはならないとは言っておく。

 

小川が言いたいことは

 

「生きづらさ」は普遍的で民主的な現象なのであり「特権的な生きづらさ」なるものは存在しない。なぜなら「誰もが生きづらい」ものでもあるし「生きづらさ」は平等でとても人間的な現象なのでそれを否定するのは人間存在を否定するようなものなのだ。だからその「生きづらさ」がなんであれそれが「生きづらさ」である以上それから逃れることはそもそも不可能なことなのだ

 

といういことである可能性がある。

 

そして小川栄太郎氏の文章の下品さも「歯がゆさ」を表現だととらえることもできる。

 

(これはおそろしく好意的に誤読しているのだが)

 

ある種のクリエーターやパフォーマーはそもそも言語に(あるいは画にあるいは音楽に身体表現に)はならない存在とともに暮らしている。天才的な人々が狂の世界に陥るのは偶然ではない。酒浸りになったり女遊びが激しくなるのもそもそも言語に(あるいは画にあるいは音楽にあるいは身体表現に)ならない存在とともに暮らすことはとても苦しいことなのだ。

 

今の世界ではどこに行っても「歯がゆさ」から逃げることができないようにも思える。日本にいると特に「歯がゆさ」を感じるようだ。(私は海外に行ったことがないのだが)。

 

しかしこんなに強い「歯がゆさ」を感じているひとが多数いるということは(おそらくほんの一部にしか過ぎないのだろうが)突き抜けるひとが出てくる可能性があると私は思うのだ。

 

でも苦しくてお金に余裕があるひと苦しみに耐えられないと思ったら海外に出た方がいいと思う。

 

3、ポストモダン

 

ポストモダンという言い方が昔はやった。その時は正直好きな言い方ではなかった。

 

 

ウィキペディアより

-------------------------------------

ポストモダンポストモダニズム   

進歩主義主体性を重んじる近代主義啓蒙主義を批判し、そこから脱却しようとする思想運動のこと。またはモダニズム近代主義)に行き詰まりを見出し、そこから逃れようとする芸術などの文化的諸分野上の潮流。脱近代主義

----------------------------------

 

以下もそうとう好意的な誤読だが小川は「進歩主義」「啓蒙主義」「主体性」のような「近代主義モダニズム)」を批判しているのかもしれない。

 

LGBTの権利運動には「進歩主義」「啓蒙主義」「主体性」という近代主義モダニズム)を下支えにしている要素がある。

 

ただポストモダンはそれが時代区分としても価値としても「モダン(近代)の後だ」しか言えない存在なのだ。

 

日本は西暦の他に元号を使う。元号の変化にも意味があるかもしれない。来年で平成が終わる。そして日本の時代区分も独特のものだ。その時の首都機能がある場所の名前がその時代の名称だ。(日本がずっと今の日本人が思う日本だったとは思わないが)鎌倉に首都がある時代は鎌倉時代平安京に首都があった時代は平安時代なのだ。そういう意味は今は東京時代なのだ。

 

日本史上の東京時代はなお続くだろう。明治時代以降はずっと東京時代なのだが。平成の終わり(2019年)くらいから明確に第二期東京時代に入るような気がしている。

 

今(2018年)はモダン(近代)からモストモダン(近代以降)に揺れている時代だ。

 

ある発言やある仕事は時代との関係とともに考えた方がいい場合が多々ある。たとえばある時期の左翼的な発言や仕事は当時支配的(ドミナント)だっ存在を読み込んで読解しないと意味が取れないことが多々ある。

 

政治家でいうと田中角栄ニクソンさんの「存在」や「存在のありよう」がわからないと当時の発言や仕事が見えてこない場合が多々ある。

 

今の日本での安部首相の「存在」や「存在のありよう」が見えていないと後世のひとには今の日本での「発言」や「仕事」がやはり見えてこないはずだ。

 

あるいは今のテレビはほぼ「平凡な人たちの世間話」に覆われている。

 

そういうことにいらだっているひともいる。私もいらだっている。つまり「歯がゆい」。

 

でも「そもそも特別に有能で優秀なひと」は存在しないのだ。

 

それは「あの政治家は無能だ」であるとか「あのコメンテーターはモノを知らない」ということは当然のことにしか過ぎないのだ。

 

ろくすっぽ見識もなく、知識もなく、無能で、平凡な人々(それはすなわち私でありあなた)だけで日本も世界も運営していくのだ。

 

この事実認識と覚悟がとても重要だ。

 

そして配慮みたいなものがとても重要になる。

 

世のなかには「理由はともあれ」ということがある。理由はともあれあまりにひとをイヤな気持ちにさせる発言をすることやするひとたちはそういうことの代償を払っていくだろう。

 

それは職場の同僚との会話でも友達との会話でもSNSでの発信でもそうだ。

 

実際「こういう人たちと付き合うのはもう無理だ」という理由での退職もよくあることだ。

 

そういう風に見限られた人々だけが残っている会社や組織の多くが問題を起こしていくのも当然だ。

 

今の世界に「大きな解」はそもそも存在しない。ここでいう「大きな解」とは新しいイデオロギーのことだ。

 

ここでいうイデオロギーとは「ある巨大な方程式を当てはめると世界の諸問題が解決することがありえる」という場合の「大きな方程式」のことだ。

 

そういう「大きな方程式」を見つけることがある学問領域のTOPの学者たちが夢中になっていたこともある。

 

違う言い方をするとそれは「大統一理論」だ。

 

これはウィキのコピペだが。

 

「自然界は四つの基本的な力(電磁相互作用弱い相互作用強い相互作用重力)で表される」とする。

宇宙の始まりに存在したのは唯1つのだけで、その後これらの四つに分かれた」という考え方から、これら四つの力を一つの形で表して統一しようとする理論がいくつかあるが、大統一理論(GUT)はそのひとつである。

 

私はそもそも大統一理論は存在しないんだと考えている。だとすると大統一理論に対する的確なアプローチは「なぜ大統一理論を完成されることは不可能なのか」ということになるはずだ。

 

ありえないほど有能で優秀で立派なひとを求めることや、そういうひとではないという理由で誰かを糾弾することもなく、大統一理論を追い求めることもなく生きるという覚悟を決めることがとても重要なのだ。

 

それは漱石の言葉を借りると「ひとの世に生きる覚悟を持つ」ということだ。

 

軽々しく「思想」にかぶれることもなく、軽々しく「宗教」にかぶれることもなく、軽々しく「ひとをイヤな思いにさせる言動に取ることもなく」、軽々しく「誰かに何かを求めることもなく」、軽々しく「楽な正解に逃げ込むこともなく」、生きる覚悟がとても重要なのだ。

 

そうなると当然「配慮」や「マナー」がとても重要なのだ。

 

全員「人の世」で生きていくより他に方法はないのだ。そして漱石がいうように、もしそうではない世界があるとしても、それは「人の世」よりもなお住みずらい「人でなしの世」でしかありえないのだ。

 

そして、いくら「歯がゆい」からと言って「人でなし」になってなんとかしようという発想や言動はあまりに気楽すぎる。

 

そして今日この記事を治していてやっと結論にたどり着いたが杉田水脈議員の問題は彼女の思想信条ではない。それは間違いだ。

 

問題は彼女の「配慮」や「マナー」のありようだった。

 

「中身がちゃんとしていればそれでいい」というのは悪しき本音主義だ。

 

「そのひとの人格」「その記事の発言内容」はもちろん重要だ。だが「そのひとの口のききかた」「その記事のニュアンス(記事の内容ではなく)」も「中身」と同じかそれ以上に重要だ。

 

「人間中身なんで口のききかたも着る服もどうでもいい」という間違った思想がはやっている。

 

それは今の日本の病理だ。

 

 

 

 

以下おまけ

4、日本の人口推移

素晴らしい仕事があるので世界各地の人口推移がわかる。

 

図録▽人口の超長期推移(縄文時代から2100年まで)

図録▽中国とインドの超長期人口推移

図録▽ヨーロッパの超長期人口推移

 

日本で15世紀、ヨーロッパで16世紀に人口が増えていることには明快な原因がある。宗教改革があったのだ。産業革命を経験して生産量が増大して人口が増えているわけではないのだ。産業革命の前に人口増大が起きて、その後産業革命が起きている点が重要だ。

 

鎌倉新教といわれるものが宗教改革なのだ。日本の仏教を他の他の仏教国のひとが見ると圧倒的におかしい。それは日本の仏教の多くがキリスト教でいうプロテスタント(つまり宗教改革の影響を受けたキリスト教)に当たるもので他の仏教国はキリスト教でいうカソリックに当たるものだからなのだ。

 

ただこれに関しては気候が関係している気がする。暖かい地域の方が出家してお布施のみで暮らしやすい気がするのだ。セム教系の一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教)は砂漠の教えだしいわゆる欧米は緯度では日本でいえば札幌と同じかもっと北に位置する寒い地域だ。

 

私は九州なので下手をすると自生している果物やちょっとがんばればとれる魚とかで食べて行ける気がするのだ。最近夏はバカみたいに暑い。でも家もそんなに立派なものを建てなくてもやっていける気がするのだ。砂漠でも寒い地域ではそうはいかないはずだ。特に寒い地域は男の仕事がたくさんありそうだ。そういうことと宗教の在り方は関係があると思う。

 

たとえば浄土真宗の僧侶はざっくりいうと特別な修行はいらなという考えがあるので妻帯しても構わない(親鸞承聖人も奥さんと子供がいらした)。私の家も私が育った地域も浄土真宗だったのだがお坊さんの奥さん坊守(ぼうもり)さんと言うのだが、坊守(ぼうもり)さんは近所の奥さんを集めてヒロウス(がんもどき)を作ったりしていて信仰上というよりも地域社会に必要な存在だった。今はそういうことはあまりないのかもしれないが。

 

日本は明治に入って移民を海外に送り出している。ハワイで広島弁が聞こえるのは広島は浄土真宗が盛んな地域だからだ。当然昔は避妊技術もないので生まれた赤ちゃんを間引くことはそうとう一般的だったようなのだ。でも浄土真宗の教えで間引かなくなったことと日本の人口増大はむずびついているようなのだ。

 

5.ブレイク(休憩)

 

ジェレド・ダイアモンド氏はとても長いスパンで人類を観ることができるひとだが

 

人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

 

 

(こういう言い方には抵抗があるのだが)未開地域の女性について書こうと思ってちょっと調査したところあまりに女性の地位が低いので断念したことがあるらしい。人類学で婚資というが女性が結婚する時に結婚相手の男性や男性の家から女性の家にモノや労働を贈る。その女性は(1、労働力である 2、子供を産む存在である)存在であるからだと考えられている。

 

贈与という概念を使うと「おごる」という行為の不思議さが解明できる。たとえば日本では仕事上での食事や彼女とのデートの時におごる場合に5%割引のクーポンは基本つかわない。これは「ちゃんと贈与した」という意味がある。クーポンを使うと贈与という概念に抵触するのだ。贈与は「ちゃんとあなたにこれをおくりましたよ」という意味がある。クーポンを使うとその意味が損なわれるのだ。

 

こんなことを書くつもりはなかった。性についてなのだ。真鍋昌平著「闇金ウシジマ君~出会い系カフェの真実」の一場面を読んでいて「そうだよね」と思ったのだ。JPという若者が冬美という女性とセックスをする場面だ。冬美が「ちょっと今中で出した」というのだがJPは「本来はそういうもんだろ?」というのだ。

 

セックスの意味が生殖だけでは本来ないとは思う。しかし今の日本でのセックスに生殖の意味は極めて薄いのだ。

 

今の日本での問題について考えてみよう。

 

たとえば学校が問題なのだが。今の学校は兵士と工場労働者とオフィスワーカーを養成する場所だ。そういう意味での学校はすでに役割を終えているのだ。兵士もいままで必要とされた兵士ではない兵士が必要になっている。今あるのかどうか不明だがサイバー自衛隊はどうしても必要なのだ。サイバー自衛隊陸上自衛隊はおそろしく仲が悪くなるだろうが。でも今の学校ではサイバー自衛隊員を養成できないのだ。今何度目かの産業革命の真っ最中だ。ここでは工場労働者(ブルーワーカー)とオフィスワーカー(ホワイトカラー)はまったくなくなりはしないだろうが大幅に減少する。AIに仕事を奪われるという議論には乗らない。たとえば工場のラインに張り付いて同じ労働をするような仕事や今はPCを使うのだろうが単調な事務作業をえんえん行うような仕事はそもそも非人間的なのでAIに任せたほうがいいと私は思っている。それはチャップリンのモダンタイムスの世界だ。本当にモダン(近代)の仕事なのだ。

モダン・タイムス [DVD]

モダン・タイムス [DVD]

 

カフカの変身も今読むと身につまされるひとが多いだろう。ある学者が「小説では変身が一番好きだ」と言っていた。理由は「あれを読むと本当に仕事に行きたくない」という気持ちが伝わってくるというのだ。 

変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)

 

ウツ多発も過労死も大問題だが私自身学校や職場に死んでも行きたくないと思うことがあるのだ。近代の働き方を「9 to 5」とはいう。今の日本で「9時から5時まで」で済む仕事はほぼないだろうが「9時から5時まで」だとしても「今日は死んでも行きたくない」とたびたび思っている人たちがそうとういるはずだ。学校であっても仕事であってもだ。 

 

不登校という現象は兵士と工場労働者とオフィスワーカーを養成する場所としての学校の意味がほぼ終わっていることと考え合わせるととても納得できることなのだ。

 

私の知人が「スーツを着るとスイッチが入る」といっていた。でも彼女(女性なのだが)彼女はその仕事をやめているのだ。私自身「スイッチを入れる」という感覚はわかる。でも「今日はどうしてもスイッチを入れたくない」という強力な気分に襲われることも多々ある。

 

テロも問題だが戦争の歴史を考えてみると今テロが問題になるのがわかってくる。今から思うと昔の戦争はノンキな要素があったはずだ。ごくごく一部のひとしか戦争には作家しないのだから。テクノロジーの問題もあるが戦争に直接かかわる人がどんどん増えてきている。

昔のことは勉強してないのでいえないが第二次世界大戦以降の戦争の変化については指摘できる。

日本は中国大陸を侵略しているが中国では民間人(子供も含めて)が兵士になったりゲリラになったりスパイなったりしている。そういうことがあったから沖縄戦はよけいにひどくなったのだが陸軍中野学校が指導したのだが沖縄の少年たちを訓練して兵士にしている。

 彼らの在り方が問題なのです。見た目は民間人だったことが多いはずです。WW2の時にこのあたりがあいまいだったのです。それまでの戦争のルール上兵士同士で戦争は行うものだったはずです。見た目で兵士だとわかるようにする(と書くとおかしいのですが)ルールもあったはずです。でもともに見た目は民間人だったということはテロがこの時にはもう始まっていたということになるはずです。そして仕事にはそもそもそういうところがあります。ある種のおぞましさといえるでしょう。たとえば「今回の任務(仕事)は米軍の本土進攻を食い止めることなので沖縄のひとは守らなくていい」という場合には沖縄のひとを見殺しにできるひとが有能なのです。おぞましいと思われたでしょうが反論はあるのです。「なんでもかんでもできるのならそんなことはしないけどもできる範囲でのベストはそういうことでしかなかったんだ。じゃあ沖縄のひとを守っておれも死んで本土への米軍の進攻も許して何にもできない方がよかったというのか」というものです。あなたがどういう仕事をしていても実はこういうおぞましさが潜んでいるのだと私は考えています。

そういう視点で空襲や原爆投下の問題も考えなおした方がいいはずです。

 

ちょっと何があったのかは今だにわからないのですがベトナム戦争はいろんな意味でひどかったことは事実のようです。まずベトコンと呼ばれる兵士は見た目では民間人と区別がつかない。そしてジュネーブ条約で傷病者捕虜の待遇改善は定めれていたのですがどうも両者ともにひどかったらしいのです。全体像は正直まだわかっていないはずです。ベトコンが米軍がとか枯葉剤がとか韓国軍も参加していたとかそういうことは散発的にはいえますが。日本だってWW2の総括ができていないのです。よそのことをどうのこうのいえた筋ではありません。

 

ただ「この戦争をどういうルールでやるのか」という部分での混乱もあったのだと私は思っています。

 

ついでにいうとネットでベトナム戦争についてちょっと見たんですが右左ともにヒドイバイアスがかかっています。

 

ただ捕虜の扱いについては大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」があるので参考にしてください。音楽だけでも楽しめるはずです。でも80年代にこの映画が作られた時は「反日」という言葉はなかったのです。戦場のメリークリスマスのテーマは「愛」ではあるのですが。

 

戦場のメリークリスマス [DVD]

戦場のメリークリスマス [DVD]

 

 

著名人の不倫をはげしくバッシングする動きがあるのも「近代的な婚姻」が大きく揺らいでいることの現れだと私は見ている。

 

 

 6、無理やりまとめる

 

大きく時代が揺らいでいることは間違いないようだ。そういう時に何かとても確かなことを求める心情や逆に激しい混乱を求める心情もありうることだと思う。

 

同じ日本の同じ時代に生きている私にも何が起きているのか正直読み解けない。それほどの混乱混迷状況だ。

 

この記事もそうだがある発言やある文章の内容(コンテンツ)よりもある発言や文章から読み解けるものを探すほうが創造的(クリエイティブ)だと私は思うのだ。

 

もちろん政治家の正式な発言に関しては内容(コンテンツ)が重要だ。だけれどもそういうことの読解はジャーナリストが主にやるはずのことだ。

 

昔は正直批判的だったのだがドナルドキーンさんが源氏物語にのめりこんでいったことの原因にWW2の重苦しい気分が心底イヤだったということがあったのだ。また映画になって有名になったがトールキンが「指輪物語ロードオブザリング」のようなファンタジーを書いたのもやはりWW2の重苦しい気分がイヤだったという意味があったはずだしベトナム戦争中のアメリカで若者たちが「指輪物語ロードオブザリング」を読んだのも当時のアメリカの重苦しい気分がイヤだったという意味があったといわれている。

 

誰にとってもバランスはとても重要だ。私だって仕事もあるし天下国家のことを考えていることもある。だけれどもタフでシリアスなことばっかりはやっていられない。特に今の日本は誰のせいだということはないのだろうが「時代の気分がとても重苦しい」のだ。誰もが重くしい気分ばかりではやっていけない。

 

どうでもいいという言い方には問題があるが酒を飲むとか雑誌「ムー」を読むとかそういうことでバランスを取りながら今の時代を生きていきたいと思う。まだ雑誌「宇宙船」もあるらしいし。