世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

昔ある件に感動したことにどう向き合うか?という課題

ある種の人たちがずっと同じ話をしている。それも新鮮な気持ちらしい。
単純に考えれば彼らは狂っている。
同じ話を何十年も新鮮な気持ちでできることはおかしいといわざるを得ないからだ。
彼らは話しているのはドラマやマンガやアニメの話が多い。

たとえば太陽にほえろの殉職のシーン。
巨人の星のある場面。
アルプスの少女ハイジでクララが立ち上がったシーン。
スクーウォーズのある場面。

こういうことをどう考えるのかだ。
彼らはそういうことに感動している。
過去に(子供の頃や青年期に)自分が感動したことが彼らにとっては受け止めることが難しい過去になっているようなのだ。
そういう過去(そういうことに感動してしまったこと)にどう向き合うのか?という課題が彼らにはあるのだ。

ある年齢の時にそういうことに感動したことは事実だ。私にだってそういうことはいくらでもある。
そういうことはなんとも恥ずかしい。それはそうだ。
だからそういうことを(そういうことに感動した自分を)「笑う」という方向が一つはある。
具体的にはそういう場面のパロディを作るのだ。
でも問題はそういう作品のある場面ではないのだ。
そういう作品やそういう作品のある場面に感動した過去の自分なのだ。

このことに関する答えを私は用意できない。
だが過去にあることで感動したことに対する態度や姿勢がある世代の人たちに取って大きな課題になっているのは事実らしい。

トラウマと言いすぎているとは思う。
そしてトラウマをココロの傷だと捉えるのが一般的だ。
だがこういうことを感情の問題としてではなく本人にとって思考や認識の既定値になっていることがむしろ問題なのだと最近私は考えている。
ある物語のパターン(ここではパターンなのだと考えてみる)に彼らは感動している。
そういう物語であるのは一つは男性性だ。「男とはこういうものだ」というコト(あるいはそういう物語)。
また死の問題もでてくる。
あるいは真心が届くという物語もあるだろう。

そういう物語よりもそういう物語が思考や認識の規定値(デフォルト)になっていることを問題点として考えるのが筋だと思うのだ。
これから先はまだ私にはわからない。