世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

善きことはカタツムリのごときはやさで進む ガンジー

昔私の商売の師匠(喫茶店のオーナーマスターでいまだにマスターと読んでいるからマスターと書く)が昔私がどうにもならなかった時に「善きことはカタツムリのごときはやさで進む」と言っていた。「ガンジーがそういっていうんだってさ」といって。

何がよくてなにが悪いのかはリアルタイムではわからない。

ある時期に普通にあることをするのがどうしてもできなくなったことが過去何度もある。普通に電話をかけることや普通に誰か会うだけのことがどうしてもできなくなったのだ。だがあとから考えるとその時期に過去の否定的なことを受け入れていたようだ。否定的な感情否定的な考え。そういうことが私の中で終わってなかったのだ。そしてそういモノを受けれてしまえば過去は過去になる。そして気がついたら子供のころかrいつもあった異常な寂しさ怒り恐れがなくなっていた。デフォ(規定値)が変わっていたのだ。

何かを感じる感がることには前提がある。座標軸というかある論理や構造の全体像だ。それがあるからあることを私たちはジャッジしている。こういうことは相対主義でもある。あることが良いのか悪いのかハッキリしなくなるのだ。そういうこともありはする。それはおそらく悪いことだ。それはともかく。

私はその時期にセラピーをやっていた。ヒトクきつかったが。

ポジティブシンキングという。ポジティブシンキングがなにかは一言ではいえない。ポジティブシンキングではインフルエンザに罹ったことを全体像としては良いことだと考える。今の日本では風邪くらいでは仕事を休めないひとがたくさんいる。仕事どころか学校でもそうだ。インフルエンザにかかると事実つらい。熱が出る。節々が痛い。鼻水が出る。そういうことが良いことの現れとして表れていると考える。インフルエンザにかかると仕事場に行けなくなる。たとえばそういうことが良いことだと考える。 

もっと虚誕な場合は地獄でしかない現実をなとか受け入れるような物語(?)や世界観を用意する。どっちが先かは不明だ。現実の受容が先か、それを可能にするための物語(?)や世界観が先なのかだ。

最近養老先生の本にAタバコを吸うひとは減っている」けれどもB「肺がんになるひとは減っている」というデータがあると書いてあった。養老先生は科学者だ。タバコは身体に悪くないとは言っていない。ただAとBを結び付けていいのかは不明だといっているのだ。同じようにA[地獄でしかない現実」とB「悪いこと」だということを結び付けて良いのかどうかはわからないものなのだ。

ただいまは切れない本当によかったと思っている。