世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

LGBTに関していろいろあるが フーコー

LGBTが今問題になっている。このことにはいろんな原因がある。一つは仕事だ。ずいぶん前からホワイトカラーはなくなるといわれていた。私もLGBTなのだが明らかにLGBTがやりづらい仕事があるのだ。ホワイトカラーだ。当然だがLGBTでも働く。ホワイトカラー以外の仕事をやっているぶんにはそんなに働きづらくないのだ。というよりホワイトカラーは仕事をしづらい。

ホワイトカラー以外はそんなに働きづらくないというのはちょっと違う。ホワイトカラー以外の仕事をしている場合にはひとの性的なことにはそもそもそんなに関心がないものなのだ。ということはホワイトカラーはひとの性的なことに異常に関心があるということになる。そしてこれは事実そうなのだ。

 

ひとの思想を勝手に広げていいものかと思うがフーコーという思想家がいる。

今を生きる思想 ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方 (講談社現代新書100)

フーコーがいう「権力」とは国家権力のような権力ではない。私たち一人ひとりの中にあるある種の意思をフーコーは権力といっている。「異界」をある時の人間は認めていたと考えていた。狂者も異界の存在だったと考えていた。だが狂者を治療の対象としたということは狂者を異界の存在だと認めなくなったということだ。

これは曖昧なのだが天理教の教祖の中山みきはある時に神がかりになった。これは今なら精神疾患を発病したと考える。でも当時は家族が中山みきに頭を下げたはず。

「お医者さんのところに連れていく」のか「頭を下げる」のかのどちらが立派だという話はしていない。

異界ということは自分たちには了解不能だということでもあるし自分たちの価値観とは違う価値観が存在するということだ。神がかりになったことを「このひとには異界の存在がついた」と考えたから日常の人間関係ではそんなことはしないのに頭を下げたという話をしている。

性も異界の存在のような気がする。私たちの価値規範やジャッジできないもののような気がする。そもそもだ。

 

もちろん私たちは日本社会で暮らしているのだから日本社会の法律やルールは守る必要があるし破った場合は法律や社会規範に準じたペナルティを受けるのが筋だ。それはそうだが性はそもそもやっぱり「異界」の存在で私たちの一般的な感覚や規範では推し量ることができない存在だと私は思うのだ。