世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

シンギュラリティと「主人と奴隷(ヘーゲル)」  そして長い余談

前にも描いたヘーゲルだ。

 

 

ヘーゲルは奴隷と主人の逆転現象が起きる(はず)だと考えていた。これは「ヒドイことが通らないでほしい」という希望あるいは願いがあってのことだろう。

 

日本は1980年代がターニングポイントだった。当時のテレビ番組でニュースステーションが人気だった。司会は久米宏だ。久米の言説に対する批判があった。

いろんな批判があったのだが批判の中の一つに「あのひとがいっていることはいわゆる左翼的なことでしかない」というものだった。

 

当時ありのあらゆる言説のフォーマットができていた。それは今話題の週刊文春もそうだ。「週刊文春的な記事のフォーマット」はもうすでに存在していた。

こういうすでにフォーマットがある仕事は機械がやればいい。そういうことには機械が向いているからだ。

 

思い出すと腹が立つので書かないが特にここ数年いろんなことで私は怒っている。私が怒った相手は仕事上のことだけではなく機械になっていたのだ。

知人も同じことをいっていたがあることを相談した時に「こういうところに行けばいい」と言われたことがある。「それくらい知っとんがな!」だ。

なんでああいう人たちはそういうことをいうんだろうと知人と話していたがさっぱりわからなかった。どうやらああいう人たちはそういうところに行けばちゃんとやってもらえるものだと信じているらしい。

児童相談所というところがある。私はいろいろ問題を抱えていた子供だったがあんなところに行く気もああいうところに関わる気もなかった。あんなところには権限もなければ人手もない。だから役に立たない。それに誰かから「あんなところに関わると人生をボロボロにされるからかかわっちゃダメだ」と言われていた。大昔の話だ。それはどうだか知らないが。

ただ実際児童相談所が関わった後お子さんが亡くなっている。ああいう話を聞くと「やっぱりそうだっったかな」と思う。

あるいは子供110番のような電話がある。私が中学生だったらあんなところには電話はかけない。事実はどうだか知らないが2ヶ月も3ヶ月も待たされた挙げ句「やっぱり難しいだよね」と言われるような気がするからだ。そうじゃなかったら申し訳ない。

でも一方には「児童相談所に行けばなんとかしてくれる」と思っているひともいるのだろうし「子供110番という電話番号があるのだからああいうところに電話をかければんなんとかしてくれるはずだ」と信じているひともいるはずだ。ただ昔の私同様事実困っている子供たちはあんなところにはかかわらないだろう。

 

そういうふうに信じているひとは良い悪いではなくて間違っている。世の中はそういうものではないからだ。間違った事実認識に基づいて行動をすれば結果も間違うのは当然のことだ。

 

主人たちはそういうふうになって失敗している。

 

作家の橋本治が「優等生批判」をしていた。ここでいう優等生というのは既成のルールにあわせる能力が高いひとのことだ。

たとえば言葉がどんどん変わって行く。昔はある種のパスタをスパゲッティといっていたが最近はそうは言わない。でもパスタというはああいうモノの総称でスパゲッティやマカロニやペンネ全部をあわせたものをパスタという。そしてスパゲッティという名称は正解なのだ。

いわゆる優等生は能力が高いからこういうことを覚えて順応することができる。

橋本はそういうことをやっていることが自分で自分の首を絞めることになっていてもそういうことをしてしまうのが優等生だという意味で優等背批判をしている。

ファッションもそうだ。「今はこういうのがオシャレなんです」というひとがいる(いた?)。

それは誰が決めたの?誰か決めたのかさっぱりわからないものでなぜ従わなければならないんだ。

既成のルールに従う能力ならやっぱり機械の方が高いのだ。

 

「こうすればこうなる」と思っているのは主人の側だ。奴隷の側はそんなふうには思っていない。

 

そして奴隷の認識の方が正解で囚人の認識は誤りなのだ。

 

こういうことで囚人と奴隷の逆転現象が事実起きている。

 

余談だが自己責任論はあたっている。言葉遊びではなく「自分でなんとかしようと思うと自分一人ではたいていのことができないことがわかるから」だ。

 

国や自治体は当てにならないし地縁血縁も頼りにんらない、社縁もだ。

「昔はいろんなことは総務がやってくれていた」という人がいるがそんな良い思いをしていたのは一部の特権階級だけ。

 

そうなると違う縁なりコミュニティが必要になる。古典的にはここは宗教が担っていた。私も不幸がありすぎて「こまったときの神信心」。いまはNPOもある。

それでわたしは浄土真宗の信徒で生長の家の師友だ。生長の家は極右だった時期もあった。私はその件に関しては「弱ったな」という感じだった。

(話がどんどんそれていくが)ただ自分が宗教にズブズブだからわかうこともある。

「幻想としての文明」は1990年ごろの本だが栗本は1968,69年を戦後のターニングポイントだと捉えている。

 

 

この頃いろいろあったのだがその中にケネディ大統領の暗殺事件があった。あの事件の犯人(とされている人物)と山上容疑者の履歴がどことなく似ているのだ。山上容疑者はカタチはよくわからない海上自衛隊にいた。これは私の憶測だがあのひとは自衛隊で浮いていたような気がする。小難しいことをいっていて周囲から距離を置かれてちあような気がするのだ。

人間は集団で生きる存在だ。そもそも人間はそういう存在なのだ。だからそれがどういう集団(コミュニティ)であってもあるコミュニティにいれば安定する。それが宗教であってもなのだが。

 

 

田原総一朗の「創価学会」という本を読んだ。創価学会が伸びたのは1960年代なのだそうだ。この時期は高度経済成長期で映画「三丁目の夕日」の時代だ。


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この時期に地方から都会に大量の人たちが流入している。彼らに取ってのコミュニティとして重要だったのが創価学会だったはずだ。

コミュニティは日々の暮らしの人間関係になるので、そういうことと教団の動きや考えとは必ずしも一致しない。

 

1995年にオウム真理教地下鉄サリン事件があった。

 

また話がそれるが常識という。常識はコモンセンスだ。これが「いわなくても当然わかっている(はずの)こと」をいう。でもこれがある時期の日本で破壊された。なくなったのだ。

ちょっと前にソフィの世界を読んだいたら「イギリス人はコモンセンスといいフランス人はエビデンスという」とあった。日本人もある時からやたらと「エビデンス」といっている。

 

 

ある時期に日本で「そんなの常識だ」というコトが通用しなくなった。その原因は不明だ。

ただ常識は大きくコミュニティの影響を受けることは事実だ。そして今の日本人は価値観を喪失している。

 

そして同じような時期に日本人は価値観を喪失した。「何かに意味や価値がある」と思う(あるいは信じる)ことをだ。日本中ニヒリスティックな状況にある。

そうなると残るのは極めてわかりやすい価値観(価値基準)だ。お金だとか姿が美しいかどうかとかどういう社会的ポジションかというようなこと、あるいは性愛のようなわかりやすい価値観価値基準だけしか残らない。

ただお金でいうとお金があることに価値がある。

姿についても姿がうつくしいことに価値がある。

社会的ポジションについても社会的ポジションが高いことに価値がある。

これを間違えてはいけない。

私は価値観と描いた。価値基準とも。

 

井上章一が「美人論」という本を書いた。「美人論」というタイトルから誤解を受けたのだが井上は「美人であることに価値が出てきたのはそんなに昔からのことではない」ということをこの本で書いている。

ではなぜ「美人かどうか」が日本社会で長く大きな価値をなかったのかだ。

長く日本人は他のことに価値を見出してきたからなのだ。

 

そしてそれはきれいごとでもなかったはずだ。

 

 

 

精神科医名越康文は「良いひとというのはそのひとといると自分が良いひとになっているひち」のことだと言っている。

 

こういうことは実際にあって「このひとといるとなんだか気持ちが豊かになる」ひとは実際にいる。本当に素敵なひとなのだけれどもなぜかそのひといるち気持ちがトゲドギしくなってしまうひともいる。

それに下品な言葉ではあるが「アゲマン」も「アゲチン」もいる。それは別に性愛の問題ではないのだ。あるひとと付き合っている時には(結婚している時には)すごくうまくいっていたひとが(性別問わずだ)そのひとと別れてうまくいかなくなることがある。

たとえばお金や社会的ポジションに価値を見出すひとであっても「アゲマン」や「アゲチン」とお付き合いした方が良いと思うのだが。

 

そして友達や仲間や職場でも同じことがある。別に立派なひとや偉いひととお付き合いしているからうまく行くわけでもないのだ。

職場でいうと仕事を辞めてからおかしくなってしまうひともいるしある職場から離れた後うまく行きだすひともいるのだ。見ていて不思議なのだが。