世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

みんな「神的なこと」「宗教的なこと」は言いたくない

そういう人たちは名前を出して本を書いたり講演をしている。シャーリーマクレーンがそうだ。日本でいえば斉藤一人さんがそうだ。お二人に共通なのは本業で有名だということだ。

アウト・オン・ア・リム (角川文庫)

ダンシング・イン・ザ・ライト―永遠の私をさがして

斎藤一人  今はひとりでも、絶対だいじょうぶ

そしてさらにお二人に共通なのは「神的なこと宗教的なこと」をいうとそういう扱いを受けることが分かっていることだ。

この話を書くつもりではなかった。

新約聖書は比喩だらけだ。たとえだ。仏教経典(いわゆるお経さんだ)にも全編比喩というものもある。新薬聖書に毒麦(悪い種)というたとえ(比喩)がある。ネットのYouversionによるとマタイによる福音書13にあるそうだ。YouVersionというところが何なのか私はわからないのだが。これはたとえ(比喩)だから取り方(解釈)はいろいろだ。

悪い種を敵(これが誰かわからないが)が蒔いた。そして悪い種が芽を出した。それでいい麦と毒麦が今畑にある。どうするかだ。イエス様は収穫期まで待つようじといっている。

今の段階で毒麦だけをよけて抜くことはできない。今そういうことをするといい麦(普通の麦)まで抜いてしまうからだ。収穫期まで待つといい麦と悪い毒麦がハッキリわかるから悪い毒の麦だけ抜くことができる。そうなってから悪い麦(毒麦)だけ抜いて収穫してそっちは集めて燃やしなさいといっている。良い麦の実は良い麦の実だけちゃんと倉に入れなさい。

以下は私の解釈だ。これって良い種か悪い種かを区別することは不可能だということじゃないのかな。良い種のように見えて悪い種だということもあるし悪い種のように見えて(そうしか見えないのに)良い種だということもある。だから良い種か悪い種かという区別をつけるのは不可能なのだということじゃないの?そして良い種悪い種というのは良い原因か悪い原因かだともいえる。良い原因は良い結果になる。悪い原因は悪い結果になるはずだ。でも良い種か悪い種かの区別がつかないとしてもやがて芽を出してくると「これって悪い芽なんじゃないの」という風に若干はわかる。でもこの段階ではまだ十分わからない。そしていよいよ実になるとそれが悪い麦か悪い麦か(つまり悪い結果なのか良い結果なのか)はハッキリわかる。そうなって悪い麦(悪い結果)は集めて燃やしなさい。良い麦(良い結果)は集めて倉に保管しなさい。

やっぱり以下も私の解釈だ。良い種だけを蒔くことは不可能だ。誰もが悪い種も蒔いてしまう。でも良い種(良い原因)は良い麦(悪い結果)になり悪い種(悪い原因)は悪い麦(悪い結果)になる。良い結果と悪い結果は混在している。そして悪い結果を出したもの燃やして(そういう対応をして)良い結果を出したものだけを残しなさい。

こういうことなんじゃないかと思った。

誰もが良い種だけを選んで蒔くことができれば楽だけどね。そうはいかないものだ。

今書いてみて「そりゃそうだよね」と思った。

ただ私自身こういうことは書きたくない。こういうことを書くと(いうと)そういうヤツだと思わるのだ。

シャーリーマクレーンは有名な女優だ。そういうひとが前世云々ということを言うと世間がどういう反応をするのかはわかっていた。そういうことはみんなわかっている。だからみんなそういう話はしたくないのだ。

 

当然私もこういう話はしたくない。

 

シャーリーマクレーンの本を読んで「なるほどな」と思ったのだがシャーリーマクレーンはこういう本(神秘的な内容の本)を書こうと思っていることをご両親に相談されている。反対されると思っていたようだ。だがご両親が意外に賛成だった。そしてシャーリーマクレーンには娘さんがいる。サチパーカーさんだ。シャーリーマクレーンは自分が有名な女優でもあるしハリウッドで育てるのには迷いがあったのだそうだ。ドラッグのようなこともあるのだ。でもサチパーカ^さんがちゃんとされているのだ。西の魔女が死んだでイギリス人のオバアチャンの役をされている。

西の魔女が死んだ

シャーリーマクレーンが何を信じどう言っていたとしても実際娘さんがちゃんとされている。そういうことは重要なことだ。

それは斉藤一人さんも同様だ。実際一人さんは優秀な実業家なのだ。

 

ダンシングインザライトを読んで「わかるワ」と思った。シャーリーマクレーンのド両親がいつも同じパターンの夫婦ケンカをされているのだ。いつも同じパターン。シャーリーマクレーンはやっぱり娘だからその夫婦ケンカには何もいえない。だがサチパーカーさんは孫だから言える。「二人はいつも同じパターンでケンカをしている」と。

ケンカではなくても同じパターンにいつもはまってしまうことは誰にもあることだ。たいていのひとはそれが同じパターンだとわかっている。わかっているのだが同じパターんにはまってしまう。同じパターンの悪いことなのだが。

こういうことが業だとシャーリーマクレーンは書いている。わかっていても繰り返してしまうことは多くのひとにあるはずだ。

「そういうひととは距離を取りましょう」とかいうことはたいていのひとにはわかっている。私だってあるひとに近づくとイヤな思いしかしないに自分もしょせんイヤなことしか言わないことがわかっているのにそういうひとに近づいてワザワザイヤな思いをしてイヤなことを言っていることもあるのだ。

だけどそういうことが悪い種なのか良い種なのかは誰にも分らないことなんだと思う。腐り果ててしまったとしても致命的なことをしなかったら良いような気もする。

このあたりは私にはわからないことだ。