世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

統合失調回復の記録 54

50才くらいのときにいろんなことができなくなった。そして今から思うとそれが天の助けだった。このことは何度も書いたが。

回復している途中で若いひとと話していて「土本さんの話は20年くらい飛ぶ」と言われた。どうも病状が重かったときの記憶が飛んでいるらしい。20年か30年。

ワタシは記憶が飛んでいるから昔のことは鮮明に覚えている。そうじゃなくても年を取ると昔のことの方がよく覚えているものだ。

 

ドラマ「不適切にもほどがある」を日本版「バックトゥーザフューチャー」だというひとがいた。

バックトゥーザフューチャーの主人公の家の状況を考えてみよう。主人公は高校生だ。父親はまったくウダツが上がらない。母親はキッチンドランカーでアルコール依存症。オジサンは刑務所に入っている。お兄ちゃんのお姉ちゃんもヒドイ状況。

目をそむけたくなるようなため息しか出ないような状況。

それで主人公は「こんなヒドイ現実になってのは過去に原因があるはずだ」ということで過去に向かう。

 

バックトゥーザフューチャーは一面そういう話だ。

 

ドラマ「不適切にもほどがある」と結構若い人たちがみたらしい。そりゃそうだよ。あんな素敵な日本なんて彼らは経験してないんだから。「日本にもこんな良い時代があったんだ」と思って観たんじゃないの。

そして「ああいう人たちがこんな良い思いをしてしかも浮かれまくって日本をダメにしたんだね。そういう連中がまだ浮かれてるんだ。ふーん。4んで欲しい。というか4ね」くらいに思っても全然不思議ではない。そりゃ「お前ら集団自決しろ」くらいは思うわな。というよりそう思われて当然だ。

 

話を戻す。昔バックトゥーザフューチャーを観た後にワタシの商売の師匠に「貧乏で大変だっていうけど(実際大変なのだ)あんな良い家に住んでるじゃない」と言った。そしたら師匠(喫茶店のオーナーマスターでずっとマスターと呼んでいるから今度マスターと書く)が「ああいう家は大量生産で安く作ってるんだよ」と言った。「そういうもんなんだ」と思った。

ついでにいうと若い頃にある種のサギに引っかかったことがある。10万持っていかられた。その件についてマスターが「すぐ警察呼ばなきゃ」といっていた。向こうは仲間とある書類を作った(のだろう)だけで10万。こっちは汗水たらして働いて10万。

そういう人たちをマスターがひどく軽蔑していたがその件でワタシもその件があって「なるほど」と思った。

 

一頃win-winといっていた。ワタシはwin-winの意味がわからなかった。だがあるときに「7つの習慣」を読んだ。

 

コビィ博士だ。この本に会社をやっていて世間のためひとのため取引先のため、職場のためと思って仕事をしていて会社を倒産させたらそれはlose(負け)だという記述があった。それはlose-winだからそうなってはダメだということが書いてあった。

 

ワタシは外国でもそうだったんだと思った。日本でもそういう風に暮らして(働いて)いる人たちが苦しい思いをしている。

口はばったいがワタシもそうだった。

日本の場合は80年代の後半にはそうなっていたはずだ。ワタシは当時あるスーパーでアルバイトをやっていた。アルバイトとはいえ6時間労働だったからほぼフルタイムだ。8時間ならフルタイムになるわけだから。

当時の日本でそういう人たちが責任感でなんとかガンバッテいた。「ここでやめるたら店が大変だ」ということで(それが責任感ということだ)。

 

その後もワタシは頑張ってきたつもりだったがそういう生き方はやっぱり間違っていたのかなとも思っていた。

ただ50才くらいから(今から思うと)結果は出ていた。

いろんなところで会った人たち(特に同世代)にワタシは怒っていたし向こうは嫌っていたはずだ。その理由はワタシはできたから。そして向こうは出来なかったから。

そういう人たちが世間で良いポジションで良い身分で良い給料をもらっていたのだ。だから「こんな人たちがそうだったの」と思ってワタシは怒っていた。

 

なにかができるとしたら過去にやったことがあるからだ。なにかを知っているとしたら過去に勉強しているからだ。それ以外の理由はない。

 

ポジティブとはいう。あれは好きなコト楽しいコトだったら徹夜でやってもたいして苦にならないという意味でそもそもしないという意味ではない。

 

話が飛ぶが池袋で元キヤリア官僚が交通事故を起こした。ご遺族が今だにSNS等で侮辱されて苦しんでいる。ワタシにはかけるコトバもない。ただある種のクスリを長期服用すると認知障害を起こすらしい。マダラボケだ。普通に病院で出しているクスリだ。

こういうことを取り上げるのはたいてい週刊現代だが。

週刊現代に書いてあることが事実なのだとすればあの交通事故の原因はクスリの副作用だった可能性がある。

こういう話が出ないのが怖い。こういうことはマスコミだって調べれば簡単に分かることだからだ。

 

また昔和歌山で毒カレー事件があった。ここで問題にしているのはあの事件の犯人があのひとだったのかどうかという話ではない。

 

この2つの事件をワタシは主にテレビで観ていた。普通に見ていると腹が立ってしょうない。ホントにハラワタ煮えくり返るのだ。だから「とっとと死刑すれば良いのに」と思った。少なくともワタシはそう思った。

気持ちがそうなることが問題なのだ。普通そういう風になるはずだ。

 

誰にだって間違いはあるものだ。間違えないなんて論理的に不可能だ。

だから問題は間違えたときにそのことを①認める②その間違い(良い悪いつまり善悪の問題ではなく正誤の問題)を正すということが重要になる。

 

ワタシだって「あの件」ということは当然ある。認めきれていないことだってあるのだ。

 

今が悪いとすればそのことにはなんらかの原因があるものだ。その原因を考えるのだ。これがいわゆる自己責任論ではない。

言葉遊びではなくて自己責任論者はひとや制度や公や法律に頼るものだからだ「自分ででなんとかしよう」と思うと自分以外のいろんな存在の助けが必要が必要だということがわかるからだ。

そして運という要素もある。誰かにあったか会わなかったで人生は大きく変わるものだからだ。

あるグループにいるかどうかでまったく違いものだ。朱に交われば赤くなるものだし孟母三遷なのだ。一頃悪かった(ヤンチャ云々というが悪かったの方が良いと思う。事実悪くしかなかったのだ。事実は正確に述べるものだ)若い友人が「引っ越そうかな」といっていた。やっぱり環境を買えないと。

若いひとがどういうことをしているか知らないが「飲みに行こう」とか「遊びに行こう」と仲間にいわれたらついつい行ってしまう。そういうことは楽しいことだ。そうすると仲間を変えるしかない。そのためにはお引越しだ。

 

ワタシも今の現実は悪いのだ。日本だって今の日本は悪い。

ポジティブシンキングのステップ1(ステップ0かもしれない)は現実の受容。これをしないのはポジティブシンキングではない。

 

ただワタシはやっていたのかもしれない。意図的ではなかったが。そうするとそれをやっていたワタシはどういうワタシなのかという話にはなる。

話が戻るが何かができるとすれば過去にやったことがあるからだし何かしっているとすれば過去に勉強したことがあるからなのだ。そしてそれはワタシが長年不幸で下げ止まっていたからだ。ワタシは長年ワザと長年不幸で下げ止まっていたわけではないのだが・・・。