世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

影響と感情:子供の頃の経験が大人になっても持続する不幸

子供の頃にいろいろあったことが大人になった後にも影響を与えるという。
わざと専門用語は使わないで書いている。
こういうことを感情をポイントにして考えるのが一般的だ。
だがこういうことを認識をポイノトとして考えた方がわかりやすい。

私は子供の頃は幸せだったのだがある年齢以降ずっと不幸だ。
不幸で下げ止まっている。
ただ「困った時の神信心」で宗教をやっている。
一頃は極右だった生長の家だ。
ただ生長の家は改宗しないタイプの宗教なので信徒という意味では浄土真宗の信徒だ。

生長の家はトップが変わって政治路線からは離れた。
そういうことと考えが違う人たちが激怒して離れていった。
生長の家はいわゆるポジティブシンキングをすごく早い時期からいっている。
また創始者がすごく早い時期にフロイトを読んでいる。
生長の家の考えによれば私の病気や不幸は私が悪いのだ。
「そうかもしれないが・・・」とは思っていた。
ただ私にとってのデフォルト(既定値)になっていた認識に問題があったことがわかった。
理由はともかく私は「自分はダメ人間だ」と思っていたし「話なんか通じない(気持ちも通じないものだ)」と思っていた。つまりそういうことが私に取ってデフォルト(既定値)の認識だったのだ。
50代の約10年缶でこのデフォルト(既定値)の認識が変わっていた。
なにしもそれはデフォルト(既定値)だったから私には自覚することがひどく難しかった。
これは何度も書いているがそういうことが起きている間私は怒り死にしそうなくらいに怒っていた。
怒りの抑制が効かなくなっていたのだ。
苦しくもあったしいろいろ大変だった。
でもいつの間にか自分の既定値が変わっていた。
そうすると自覚はないのだが(同じように振る舞っているつもりなのだが)いろいろ変わって来た。

長い付き合いの友人たちと縁が切れてしまうこともあった。
そういう人たちは離れた方が良い人たちだった。
離れた場所もあった。こういう時に「あんなヤツがいたから」と思って怒っていた。
それはそうなのだ。
だがそういう場所は離れた方が良い場所だった。

最近ある件であるひととちょっと話した。
それはそれだけのことだったのだ。
でもその時そのひとに話したこと(内容)が違う所に通じていたらしいのだ。
いままでそんなことはなかったから、そんなふうには思っていなかったのだ。
でもどうやらそうらしい。
これは感情の問題ではない。認識の問題だ。
どうやら認識(それもデフォルト既定値の)が変わるとこういうことが起きるものらしい。
ただ生長の家ではこういうことは普通にいうことではある。
とはいえ今どき宗教はいろいろあるからあんまりオススメはしない。

女優のシャーリーマクレーンは本気のスピリチュアルとして有名だ。
シャーリーマクレーンが本気のスピリチュアルだというのは皮肉ではない。
あれくらいになるといわゆるカルトには入れない。
それくらい本気なのだ。
シャーリーマクレーンはもちろん有名な女優だ。
でも輪廻云々のような本を書こうと思うのだ。
それで周囲のひと(両親にも)相談する。
有名女優がスピ的な本を出すというのだから周囲のひと(彼女の両親も)反対するとシャーリーマクレーン自身も思っていた。なにしろ彼女は有名女優なのだ。
「そういうことはやめておいたほうがいいんじゃない」というふうに。
でも周囲のひと(彼女のご両親も)賛成だったのだ。
このことは彼女自身も意外だった。
宗教やカルト云々に接し方としてこういうカタチ(つまり周囲のひとも認めているカタチ)と周囲の人たちから離れたカタチでは違うし、このことを問題にする必要がある。
そして彼女は(それは私もが)そもそもコミュニティを持っているひとなのだ。
宗教ウンウンという時にはこういうことを論点にする必要がある。

私の友人に学会一世が何人かいる。そのウチの二人は若い頃に東京に行っている。
そしてどうも東京で浮いていたらしいのだ。
その時のコミュニティとして昨日していたのが学会だったらしい。
創価学会が1960年代に伸びている。
1960年代は高度経済成長期で映画「三丁目の夕日」の世界だ。
あの頃地方から都会(特に東京)に多くひとが移入した。
そういうひとにとってのコミュニティとして機能していたのが創価学会であったはずだ。

私の話に戻る。
40才くらいの時にあるひとと知り合いになった。後で気がついたがそのひととは個人的な経験が似ている。
そのひとに携帯の番号を教えてもらっている。
「なにかあったら電話かけてもらってかまわない」と言われた。
両親の介護について困っていた時の話だ。
前にも書いたNもやっぱり「いつでも電話をかけてもらって構わない」というひとがいた。
Nの場合はカウンセリング(精神科医だったか?)だったが。
こういうことが大きなポイントになるようだ。
でも私もNもそういうひとには電話をかけていないのだ。