世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

統合失調症回復の記録 13

子供の頃からいつも不安だった。怖かったのだ。そして怒っていた。いつも悲しかったし寂しかった。だがそういうことがずっと認められなかった。

例えば小学生のとき小遣いがなかった。でも学校では教師が「買い食いしないようにしましょう」という。私は小遣いがないから買い食いはしたくでもできないのだ。たとえばこういうことだ。こういうことが子供心につらかったし悲しくもあったし腹が立つことでもあったし恥ずかしいことでもあった。

たとえばこういうことがどうしても受け入れられなかった。「オレはこんなことはなんとも思っていない」と自分に言い聞かせていた。でもやっぱりそういうことはツラいことだったし悲しいことだったし腹が立つことだったし寂しいことだった。

私は今還暦だがこの年になってやっとそういうことを受け入れることができるようになった。還暦になっているとしてもこういうことが受け入れられて本当によかった。

 

依存アディクションからの回復の時に「底つき」することが大事だという。私はどうやら知らない間に底つきしていたようだ。自暴自棄になったわけではない。ただある種投げ出した。投げ出すのも長年怖くてできなかった。

 

ある元アスリートが選手時代に結果がでなくて悔しい思いをしているのに親御さんが「がんばったからいいじゃない」といったそうだ。それで彼女は怒ってしまった。親心としては結果が出ても出なくてもどっちにしても子供が大事だ。

親が未熟な場合は言葉では「お母さんはあなたを信頼しているから」とはいうが表情や態度で子供が悪い(というと曖昧だが)時には明らかにガッカリしている。「この子大丈夫かしら」と思っている。言葉の通りに「お母さんはあなたのことを信頼している」のならガッカリしたり「大丈夫かしら」と思うことはないのだ。言葉ではそういってないが表情や態度がそうであるということはいろんな意味で結果が出ていないときの子供が親は好きではないということになる。少なくとも子供はそういう風に受け取ってしまう。

こういう環境で育ったひとは完璧主義者になる。自分のダメなところが自分で認められなく受け入れられなくなってしまうのだ。

どうやら私もそうだった。そして自暴自棄になったわけではないが「投げ出した」ことで(底つきしたことで)次のステップに進んだようだ。

 

還暦はもう一度生まれる年だ。そういう年回りだったのかもしれない。