世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

因果関係はあるのだが

どの本だったか忘れたのだが養老先生の本で(日本の?)喫煙率は下がっているのに肺がんになるひとの比率は上がっていると書いてあった。

因果関係というのはAがあるからBがあるということだ。少なくともここではそういうことだと考えてほしい。

養老先生が言ってるのは「タバコを吸うこと」と「肺がん」を結び付けて良いのかどうか不明だということだ。

今AがあるからBがあると書いた。

例えば黒猫が横切ると悪いことがある(ような気がする)。だが悪いことがあった時にそのことをのちに振り返ってその悪いことがあるより前に「そういえばあの時黒猫が横切った」と思い出していることがあるのだ。悪いことがなかった時にはその前に「何かあったかな」とは考えない。悪いことというか特別なことがなければそんなことは考えないのが普通だ。

今書いた言い方でいうと世の中にはAに選んでいいこともBに選んでいいことも山のようにあるのだ。その無数に山のようにあるA候補とB候補の中から特定のAと特定のBを選らんで結び付けていいものかどうかは誰に取ってもとても難しい問題なのだ。

 

最近斉藤一人さんのyoutubeをみて「そうか」と思った。死ぬほど努力したけれども結果がダメな場合がある。こういうことがあるひとの中に「自分はダメなヤツだ」と信じているひとがいるというのだ。これはそういうひとの場合の話だ。そういうひとは「自分はダメなやつだ」と信じている。そのことはキツイし痛いことだ。そのキツクて痛いことを確認する(?)ために死ぬほど努力したけれども結果ダメだったという風に自分で(意図しないで)もっていっていることがあるというのだ。

このことのAとBはAが「死ぬほど努力した」でBが「けれども結果はダメだった」のようだ。だがそうではない。Aは「自分はダメなヤツだ」というキツくて痛い認識だ。Bは「死ぬほど努力したけど結果がでなかった」ということだ。

私自身こういうことを長年やっていたのだ。

ヒントになったのはやっぱり一人さんのyoutubeだった。「親の愛というのは子供がよくても悪くても良い」ということだと一人さんは言っていたのだ。「良い子だったら子供のことが好きだ」「悪い子だったらわが子でもガッカリする」ようなことは親の愛とはいえないのだと一人さんは言っていた。ということは子供のあることでガッカリする親の態度(存在?あり方?)が問題だということになる。こういう親の反応対応を織り込んでしまった場合には子供は完璧主義になっていく。親にガッカリされたくないからだ。

私はもう両親は他界しているし年齢も還暦だ。だが今になって「そうか」と思ったのだ。

そして昨日喫茶店であったことを思い出した。あんまり考えていなかったのだが「アレ?そういえば」と思ったのだ。

茶店を出る前にスタッフに「会計はレジですか」と聞いたのだ。私はその時レジの場所がハッキリしなかった。スタッフは「テーブルに置いてあるチャージをもってレジに行ってください」といった。私は「そうですか」と答えた。それだけだ。

だが私は家族に気持ちが伝わらないということが子供のころからずっと痛かったのだ。そしてそしてその痛みを知らず知らずに繰り替えてした。

「話が通じなくて悲しい」ということを長年繰り返していたのだ。

だがもうそういうことを繰り返さなくなっていた。

おとといくらいからだろうか。昔の記憶がいろいろよみがえってきていた。つらくて思い出せなくなっていたようだ。あるいは恥ずかしくて。

50歳くらいから私は怒っていた。怒りすぎておかしくなるんじゃないかというくらいに腹を立てていたのだ。長年私は「自分はダメ人間だ」と思っていた。そういう風に思っていれば当然のことが「イヤ自分はダメ人間なんかじゃない」と思うとハラワタ煮えくり返ることばかり。あの頃から自己像セルフイメージが上がっていたようだ。

これは事実ではない。自己像はセルフイメージだ。自分が自分をどう思っているかが問題なのだ。イメージだから。

そして今書いた話だ。「自分の話はしょせん通じない」「自分の気持ちはしょせんわかってもらえない」とも信じていた。というより子供のころにそういうことがあってヒドク悲しかったつらかったし痛かったのだ。でもそういう哀しみやツラサや痛みを徐々に受け入れていた。

こういう年齢ではあるのだが、こういう風になれて本当に嬉しい。

そして一人さんが「覚せい剤反応」のようにいっていたことがあった。たとえば怒ることだ。私だって怒っていたのだが怒ることが覚せい剤を打つような意味になっている人たちがずいぶんいるという話だった。私の身内にもそういう人たちがいた。マウンティングに夢中になっている人たちもおそらくそうだ。誰かを糾弾するのに夢中になっている人たちもおそらくそう。あるいは誰かや何かを嘲り笑うことが普通になっている人たちももおそらくそうだ。

彼らはそもそも何か痛さを抱えているんだと思う。その痛さがそういうことで紛れる。彼らは彼らが抱えている痛みを紛らすためにああいうことをしている。だからその意味は覚せい剤を打つことと一緒だ。

思えばそういう人たちがいまの日本には山のようにいるな。