保守とリベラルにはいろいろな意味がある。
1.リベラルは理性や合理性を重視するが保守は理性は合成性を基本信じない。
これが一つの保守とリベラルの定義だ。私が挫折した西洋哲学では大陸合理論とイギリス経験論の対立というが。
これを年賀状に対する考えや態度で考えてみよう。
リベラルな態度や立場だったら「年賀状には意味がないからやめろう」となる。これはあくまで例えばだ。今はネットやSNSもあるわけだから年賀状という習慣を続ける必要はない。こういう話だ。
保守の態度や立場は「それはそうかもしれないけれども一応やってきたことだからそういうことをいきなり辞めるのはどうかと思う」という話になる。
そして保守とリベラルがこういう存在であるから保守は長いあいだ一貫して譲歩してきた。
女性の参政権は認めた方がいいかな。
マイノリティにひどい扱いをするのは違うかな。
そういうふうに思ったからだ。
そして世界中で保守がそうとうイライラしているのは「いつまで自分たちは譲歩するんだ」という気持ちがあるからだ。
とはいえアフガニスタンでタリバンが女性に対してヒドイ。ああいうことは「やっぱり辞めた方が良いんじゃないかな」と思う。(これは私が思うのだが)
私はLGBT当事者だが同性婚に関してはよくわからない。わからないの意味は態度を決めかねるということだ。でもLGBTに対してあまり厳しい(あるいはヒドイ)態度や言い方は単純な話ツライ。
産経新聞が同性婚に関してキリスト教を持ち出して否定していた。私は「日本の国境をキリスト教にする気ですか」と思った。
ただある程度一般性と歴史がある社会規範が必要になっているのは確かだろう。
日本も日本人も普通にダブルスタンダードだ。たとえば結婚式と披露宴はセットで行うことが多い。ここで問題にするのは披露宴だ。披露宴は酒を飲んで歌を歌って踊るものだ。これは「祭」だ。
今の日本人の多くは祭と行っても浴衣を着て遊びに行くだけのひとが多い。でも祭の主催は大変なものだ。実際親戚のお子さんが若い頃に祭の日の朝早くでかけて夜になるまでかえってこないことがあった。
祭を主催する方は大変なのだ。彼はそうした気持ちもよくわかる。そして祭を行うにはお金もかかるのだ。
披露宴のような祭は農耕以前の社会では今も一般的だ。そして地元のラジオで海外在住の肩のリポートをやっているのだがそのリポートによるとフランスでもそういう長い時代をかけて結婚式と披露宴を行うようだ。
私はあるべき社会規範は農耕以前の社会を参考にした方が良いと考える。農耕以前ということはいわゆる古代文明以前ということになるのだが。
2,政策としてに保守とリベラル
保守・・・国や政府や地方自治体は余計なことはしなくて良い
リベラル・国や政府や地方自治体はいろいろやるべきだ。
こうなる。
そしてこれはどっちが良いとは言えない。保守の政策もリベラルの政策も一長一短だから。
国や政府や地方自治体が余計なことをあまりしないと(保守的な政策を取ると)
一面活気ある社会になる。だがこれは一面残痕な社会でもある。
逆に国や政府や地方地事態がいろいろやっていると(リベラルな政策を取ると)
一面優しい社会になる。だがこういう社会はどうしても活気に欠けた社会でもあるのだ。
だからこれ(政策としても保守とリベラル)はどっちが良いとは言えない。ともに一長一短だからだ。
今の自民党の派閥だ。自民党の派閥の全体の流れは私にはわからない。ここで論点にするのは田中派だ。
公共事業に積極的で医療福祉教育に熱心な政策グループだからだ。
もちろんそういうことに利権があったことは事実だろう。そしてここの政治家に強面なひとが多かったのも事実なのだが。
でも一貫してリベラルな政策のグループなのだ。
だから私は民主党の成立はそんなに不思議に思わなかった。リベラル連合であったはずだからだ。
公共事業に積極的で医療福祉教育に熱心な政治家が集まった(はず)だったからだ。
ただ日本の政策はアメリカの影響抜きには考えられないところがある。たとえば国防の問題がそうだ。そういう可能性は極めて少ないがアメリカの動向(あるいは選択)によっては日本は滅亡する。これは事実としてそうなのだ。繰り返しになるがそういう可能性は極めて少ないのだが。
3。旧民主党について
旧民主党の政治家に関して私は「謝っちゃえば」と思っている。「政権を取ったらいろんなことがあったんだろうな」程度のことは多くの日本人は思っているのだ。だから「政権を取ったらいろんなことがあって」ということを良いステートメントにして発表すれば多くの日本人は納得すると思うのだ。
そして(これは今となってはだ)たとえば蓮舫さんに好意的な自民党の政治家はそうとういるはずだ。あのひとは頑迷なほどに意見を変えない。それは(今となってはだが)「信用できる」ということにつながっている。
頑迷なくらいに考えも変えないひとなら一旦約束したら守るはずだからだ。
私が空気を読んでしまうなのでああいう空気を読まないひとには敵意と尊敬の両方の気持ちがあるのだ。
話が若干それるが蓮舫さんの「二番じゃダメなんですか」という発言は筋としてはご最もな話だった。
政治家は意味としては国民の代表だ。議会制民主主義はそういうものだから。そういう国民の代表が「この予算の使い方がわからないから教えてほしいんですけど」というのは当然のことだからだ。
ただ言い方やニュアンスがきつかったのもまた事実だろう。
4.選挙について
また話がそれるが選挙も考える時期だ。それは少選挙区云々ということでは必ずしもない。
昔の選挙は結構お祭りだった。だから選挙事務所に酒を飲みに行ったりする人たちもいた、そういうことで酒屋や飲食店も助かっていた。それに私くらいの世代(私は昭和38年1963年生まれだが)くらい以上の人たちには「炊き出しをやって楽しかった」という経験があるひとも結構いる。
今はそういうことはやってはダメなのだ。そしてそういうことになると選挙に出るにはお金がかるという話にもなる。これをどうするのかは私には不明だ。というよりこういうことを論点にすべきなのだ。
それは事実政治にはお金がかかるという話だ。
選挙に出たい(あるいは出よう)T思うひとがお金をどうするのかということは論てKんするのが筋の事柄なのだ。
今は政党からお金が出るようになっている(と思うのだが違っていたら申し訳ない)はずだ。政党からお金が出るんだったら政党のいうことを聴いてしまうだろうと思うんだが。
話がどんどんそれていくが選挙のボランティアにいった若い人たちの反応は似ている。「みなさんよくしてくれて政治家の先生も優しかった」。多くの人たちはそういっている。
でもということは彼らは違う風に思っていたのだ。
彼らがやっているのは特定の政治家や政党の応援ではなくて選挙のボランティアなのだ。それでもそうとう敷居が高い。
旧統一教会はそういうことに付け入ったのだ。
選挙期間中はいそがしい。そういう時に「ボランティアをやりたい」という人たちがくれたツイツイ頼んでしまう。
政治も選挙も一般の人間には敷居が高くなっている。こRをなんとかする必要があるということだ。
今自民党のパーティのお金が云々ということが問題になっている。この件は私にはわからない。パーティはそもそも企業献金のはずだ。パーティがダメなら献金はダメなのかということになってしまう。たとえば小口の個人献金もダメなのかというHなしなのだ。
単純な話金持ちしか選挙に出られないのはおかしいではないか。このことを論点にすべきなのだ。
もっとも今は選挙にでたひとや政治家をボコボコに叩くことがなぜが一般的になっている。これは与野党問わずだが。これもやはり大きな論点だ。
以下はイメージの話だ。選挙期間に選挙事務所周辺に屋台が出ているとする。なんとなくだが公明党と共産党の政治家の選挙事務所周辺の屋台はおもしろくて楽しい気がする。
でも立憲民衆と国民民主両方の選挙事務所周辺の屋台は「オシャレだが値段が高い。おまけに食うもんあまりない」ような気がする。というよりそういうイメージなのだ。
両党はそういうイメージになってるよ。
今の自民党は不明だ。