デモクラシーは寄り合いだ
「政治家が不勉強だ」という批判がある。私もそう思うことがある。だが選挙に出るのは被選挙権の行使だ。投票率の低下が嘆かれている。投票行為は選挙権の行使。
選挙権の行使率の低下を嘆くのであれば被選挙権の行使率の低下も嘆くのが筋だ。ずっと見ていなかったのだがさっきTwitterを観ていた。すると玉川徹氏に「れいわ維新の会から選挙にでれば」というツイートがあった。今の日本で選挙に出るのは大ごとだ。だが選挙にでる(つまり被選挙権を行使する)のが大ごとだったら選挙権の行使(つまり投票に行くこと)も大ごとなのだ。
これはあえてこう書く。選挙は誰でも投票していい。バカでも選挙に行って投票していいのだ。だから被選挙権も誰でも行使して良い。バカでも選挙に出て良いのだ。
私自身ずっとこう思っていなかった。「投票には行った方がいいけど選挙に出るのは見識があるひとじゃなきゃダメだ」と思っていたのだ。だがこれは誤りだ。間違いなのだ。デモクラシーでは誰も投票して良いし誰でも選挙に出て良いのだ。デモクラシーとはそういうモノなのだ。
私は中退したとはいえ西洋哲学科だった。大昔の話だが。西洋哲学の祖ソクラテスは民主主義の正式な手続きを経て死刑になった。ソクラテスは逃げられたのだが逃げなかった。また私はキリスト教徒ではないがイエス様はいわば民衆が炎上してしまって死刑になった。イエス様はよみがえったのだが。考えてみれば昔から炎上騒ぎはあるのだ。
そういう知識がある私が民主制に懐疑的だったのは当然だと思う。
ただデモクラシーは寄り合いなんだと最近思った。気がついたというべきか。
タワマンがあっちこっちに建っている。タワマンにはステークホルダーがあまりに多い。だからタワマン全体のことを決める時にはどうするんだろうと思っていた。
私が住んでいる古いマンションの外壁塗装に来た方に「半分強制的にこういうことは決めてもらった方が助かります」といったことがある。マンションの外壁塗装は定期的にやらなきゃいけないことだ。そういうことについては「この日にやります」と決めてもらった方が助かるのだ。ガスの探知機の検査も定期的に行われていた。ああいうこともやってもらわないと困ることだし「この日にやります」と決めてもらったほうが助かる。でもそういうことに文句いうひともいる。
たとえばだ。そういうことについてタワマンの住人全体が話し合って合意するのはほぼ不可能だ。タワマンには膨大なステークホルダーがいるのだ。
だからタワマンみたいな膨大なステークホルダーがいるところはタワマン全体のことを決める時にはどうするんだろうと思っていたのだ。
多数決では不満があるひとがいるだろうし全員一致はとうてい不可能。そう思うとタワマンはデモクラシーの実験場のようにも思えた。日本中にニュータウンもあるのだ。
ただ私は田舎のひとで商店街で育っている。ウチは店はやっていなかったが。でも商店街の付き合いは本当に面倒なものだし商店街の寄り合いも本当に大変だ。田舎だと年に2回くらい近所の清掃があったり寄り合いがあってこういうのも大変なのだ。だから近所付き合いや寄り合いには良い印象はない。
だが寄り合いというのはある家から代表者が出て行って話会うものだ。だからあれは議会制民主主義なのだ。というか「そうだったな」と最近気がついた。
昔作家の藤本義一がニュースステーションの久米宏を商店街の寄り合いで変に筋の通ったことをいう小間物屋のオヤジみたいだと言っていた。(小間物屋というのは曖昧な記憶だ)
そういう寄り合いには行くだけで疲れるものだ。近所の清掃だってプラプラ歩いていて時間になったら缶コーヒーもらって帰るだけだし近所の寄り合いもボーット座っていてお菓子をもらって帰るだけだったりするのだが本当に疲れてしまうものなのだ。
昔はお寺さんが偉かったからお坊さんや浄土真宗ではお坊さんの妻を坊守さんというが坊守さんがいろいろやっていた。それでなんとかなっていたのだが。寄り合いは本当に大変なものだ。
今はそういうことが大変なのでいろんな業者さんが入っている。そのおかげで本当に楽だ。
前に住んでいたところが商店街の中で近所の床屋の大将が「あそこのバアチャンのゴミを適当に出すから」と本当にゲンナリしていた。そういうことで本当にイヤな気持ちになってしまうものなのだ。
とはいえ実際日本中にタワマンもある。そしてニュータウンも日本中にある。日本中のニュータウンで近所づきあいのトラブルが起きている。そういうトラブルの果てに事件まで起きているのだ。タワマンにはお金があるひとが住んでいるのだろうがニュータウンには普通のひとが住んでいるはずだ。そして実際みんな困っているはずだ。困っているというかイヤな思いをしているはずだ。
ああいうところからデモクラシーが生れてくる。イヤな思いをしないと(必要がないと)物事は生まれないものだ。誰かが言っていた「必要は発明の母だ」と。ウィキによるとガリバー旅行記だそうだ。
余談だがヤフーはガリバー旅行記からだ。ガリバーが最後に行ったところでは馬の姿をした生物が知性をもっていた。そして人間の姿をした生物は愚劣だった。この人間の姿をした生物の名前がヤフーだ。当時のイギリスは普通に馬車を使っていたはずで馬は良い扱いではなかったはずだ。そこからかえってきたガリバーは人間に近づくとヤフーのことを思い出してしまうので馬小屋で過ごす。
ヤフーをヤフーと命名した人たちはネット社会の在り方を予測していたのだろうか。