世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

家計の現状を考える:エンゲル係数とは

吉本隆明を読まないでいて良かった。もし吉本を読んでいたら影響を受けすぎていた。

吉本のエピゴーネンになっていたはずだ。エピゴーネンというの模倣社。

 

上は吉本の大状況論だ。吉本はサントリーが水を売り出したことに注目している。

 

遠くから話す。エンゲル係数なるものがある。エンゲル係数は家計の中の食費の割合をいう。エンゲル係数の意味は食費はどうしても必要なお金だから(人間食べなきゃやっていけないから)家計の中で食費が多いひと(家)は家計が苦しい(貧しい)といえるんだという考えに基づく。

お金をどうしても必要なお金と自由に使えるお金に分ける考えだ。

ここからだ。

今の日本で「どうしても必要なお金」はどういうもになるのかだ。衣食住のお金。税金も納める。子供がいれば教育費も必要だ。

 

吉本がサントリーが水を売り出したことに注目したのは同じ水でも水道水を飲んでいるひとも水を買っt飲んでいるひとがいるという状況が発生しているからだ。

専門のひとが見ればわかるのだろうがユニクロの服とハイブランドの服の区別がワタシにはつかない。

こういう状況が訪れていると吉本は考えていた。

 

吉本の言葉遣いに「大衆」というものがある。

 

吉本は大衆とともにあるのなら「消費税導」には賛成するのが筋だと書いている。

これは税率をあげると景気が冷えるということとは違う話で今書いたような消費の状況になったのだからそういう状況には消費税が付さわないという意味だ。

 

また大衆とともにあるのなら「国鉄民営化」には賛成するのが筋だと書いている。

 

ここにドラッカーの補助線を入れる。ドラッカーは公の事業に民間が競合するようになったら公はその事業から撤退するのが筋だといっている。これは公の事業は黒字にならないものにするべきだという考えに基づく。つまり公の事業は採算が取れないもの赤字にしかならないもの(だけ?)にするべきだという考えだ。

 

国鉄が厳しくなった原因はモータリゼーションっだ。自動車産業は当然民間の事業。国営の自動車会社など日本には存在しない。国鉄自動車産業と競合していた。こういう状況になったら公の事業である国鉄は引くのが筋だったという意味だ。

ただドラッカーがいうように「公は採算が取れない事業を担当するもの」だ。ワタシもすでに免許を返していて交通弱者だ。こういう交通弱者相手の事業は「採算が取れない事業」になることが多いから公の事業で対応する。

JRの赤字線は第三セクターではなくて国や自治体が赤字で運営していい(というより公の事業はそもそも採算が取れないものを担当するものだから)。

 

吉本が「大衆」云々といっていたのは今の日本の現実が証明している。今の日本の最大の政治勢力は「支持政党なし」だ。

 

自民党も野党も「大衆」を置いてぼりにしているからだ。もちろん言論状況も「大衆」を置いてけぼりにしている。

統合失調回復の記録 54

50才くらいのときにいろんなことができなくなった。そして今から思うとそれが天の助けだった。このことは何度も書いたが。

回復している途中で若いひとと話していて「土本さんの話は20年くらい飛ぶ」と言われた。どうも病状が重かったときの記憶が飛んでいるらしい。20年か30年。

ワタシは記憶が飛んでいるから昔のことは鮮明に覚えている。そうじゃなくても年を取ると昔のことの方がよく覚えているものだ。

 

ドラマ「不適切にもほどがある」を日本版「バックトゥーザフューチャー」だというひとがいた。

バックトゥーザフューチャーの主人公の家の状況を考えてみよう。主人公は高校生だ。父親はまったくウダツが上がらない。母親はキッチンドランカーでアルコール依存症。オジサンは刑務所に入っている。お兄ちゃんのお姉ちゃんもヒドイ状況。

目をそむけたくなるようなため息しか出ないような状況。

それで主人公は「こんなヒドイ現実になってのは過去に原因があるはずだ」ということで過去に向かう。

 

バックトゥーザフューチャーは一面そういう話だ。

 

ドラマ「不適切にもほどがある」と結構若い人たちがみたらしい。そりゃそうだよ。あんな素敵な日本なんて彼らは経験してないんだから。「日本にもこんな良い時代があったんだ」と思って観たんじゃないの。

そして「ああいう人たちがこんな良い思いをしてしかも浮かれまくって日本をダメにしたんだね。そういう連中がまだ浮かれてるんだ。ふーん。4んで欲しい。というか4ね」くらいに思っても全然不思議ではない。そりゃ「お前ら集団自決しろ」くらいは思うわな。というよりそう思われて当然だ。

 

話を戻す。昔バックトゥーザフューチャーを観た後にワタシの商売の師匠に「貧乏で大変だっていうけど(実際大変なのだ)あんな良い家に住んでるじゃない」と言った。そしたら師匠(喫茶店のオーナーマスターでずっとマスターと呼んでいるから今度マスターと書く)が「ああいう家は大量生産で安く作ってるんだよ」と言った。「そういうもんなんだ」と思った。

ついでにいうと若い頃にある種のサギに引っかかったことがある。10万持っていかられた。その件についてマスターが「すぐ警察呼ばなきゃ」といっていた。向こうは仲間とある書類を作った(のだろう)だけで10万。こっちは汗水たらして働いて10万。

そういう人たちをマスターがひどく軽蔑していたがその件でワタシもその件があって「なるほど」と思った。

 

一頃win-winといっていた。ワタシはwin-winの意味がわからなかった。だがあるときに「7つの習慣」を読んだ。

 

コビィ博士だ。この本に会社をやっていて世間のためひとのため取引先のため、職場のためと思って仕事をしていて会社を倒産させたらそれはlose(負け)だという記述があった。それはlose-winだからそうなってはダメだということが書いてあった。

 

ワタシは外国でもそうだったんだと思った。日本でもそういう風に暮らして(働いて)いる人たちが苦しい思いをしている。

口はばったいがワタシもそうだった。

日本の場合は80年代の後半にはそうなっていたはずだ。ワタシは当時あるスーパーでアルバイトをやっていた。アルバイトとはいえ6時間労働だったからほぼフルタイムだ。8時間ならフルタイムになるわけだから。

当時の日本でそういう人たちが責任感でなんとかガンバッテいた。「ここでやめるたら店が大変だ」ということで(それが責任感ということだ)。

 

その後もワタシは頑張ってきたつもりだったがそういう生き方はやっぱり間違っていたのかなとも思っていた。

ただ50才くらいから(今から思うと)結果は出ていた。

いろんなところで会った人たち(特に同世代)にワタシは怒っていたし向こうは嫌っていたはずだ。その理由はワタシはできたから。そして向こうは出来なかったから。

そういう人たちが世間で良いポジションで良い身分で良い給料をもらっていたのだ。だから「こんな人たちがそうだったの」と思ってワタシは怒っていた。

 

なにかができるとしたら過去にやったことがあるからだ。なにかを知っているとしたら過去に勉強しているからだ。それ以外の理由はない。

 

ポジティブとはいう。あれは好きなコト楽しいコトだったら徹夜でやってもたいして苦にならないという意味でそもそもしないという意味ではない。

 

話が飛ぶが池袋で元キヤリア官僚が交通事故を起こした。ご遺族が今だにSNS等で侮辱されて苦しんでいる。ワタシにはかけるコトバもない。ただある種のクスリを長期服用すると認知障害を起こすらしい。マダラボケだ。普通に病院で出しているクスリだ。

こういうことを取り上げるのはたいてい週刊現代だが。

週刊現代に書いてあることが事実なのだとすればあの交通事故の原因はクスリの副作用だった可能性がある。

こういう話が出ないのが怖い。こういうことはマスコミだって調べれば簡単に分かることだからだ。

 

また昔和歌山で毒カレー事件があった。ここで問題にしているのはあの事件の犯人があのひとだったのかどうかという話ではない。

 

この2つの事件をワタシは主にテレビで観ていた。普通に見ていると腹が立ってしょうない。ホントにハラワタ煮えくり返るのだ。だから「とっとと死刑すれば良いのに」と思った。少なくともワタシはそう思った。

気持ちがそうなることが問題なのだ。普通そういう風になるはずだ。

 

誰にだって間違いはあるものだ。間違えないなんて論理的に不可能だ。

だから問題は間違えたときにそのことを①認める②その間違い(良い悪いつまり善悪の問題ではなく正誤の問題)を正すということが重要になる。

 

ワタシだって「あの件」ということは当然ある。認めきれていないことだってあるのだ。

 

今が悪いとすればそのことにはなんらかの原因があるものだ。その原因を考えるのだ。これがいわゆる自己責任論ではない。

言葉遊びではなくて自己責任論者はひとや制度や公や法律に頼るものだからだ「自分ででなんとかしよう」と思うと自分以外のいろんな存在の助けが必要が必要だということがわかるからだ。

そして運という要素もある。誰かにあったか会わなかったで人生は大きく変わるものだからだ。

あるグループにいるかどうかでまったく違いものだ。朱に交われば赤くなるものだし孟母三遷なのだ。一頃悪かった(ヤンチャ云々というが悪かったの方が良いと思う。事実悪くしかなかったのだ。事実は正確に述べるものだ)若い友人が「引っ越そうかな」といっていた。やっぱり環境を買えないと。

若いひとがどういうことをしているか知らないが「飲みに行こう」とか「遊びに行こう」と仲間にいわれたらついつい行ってしまう。そういうことは楽しいことだ。そうすると仲間を変えるしかない。そのためにはお引越しだ。

 

ワタシも今の現実は悪いのだ。日本だって今の日本は悪い。

ポジティブシンキングのステップ1(ステップ0かもしれない)は現実の受容。これをしないのはポジティブシンキングではない。

 

ただワタシはやっていたのかもしれない。意図的ではなかったが。そうするとそれをやっていたワタシはどういうワタシなのかという話にはなる。

話が戻るが何かができるとすれば過去にやったことがあるからだし何かしっているとすれば過去に勉強したことがあるからなのだ。そしてそれはワタシが長年不幸で下げ止まっていたからだ。ワタシは長年ワザと長年不幸で下げ止まっていたわけではないのだが・・・。

 

 

統合失調回復の記録 53

マンガのタイトルが思い出せないのだがNというペンネームの漫画家が精神疾患から回復するエッセイマンガを書いていた。Nは交流分析で回復する。だがどうしても越えられないポイントが来る。それから子供の頃の自分の話を聴く。

マンガだから子供の姿の自分の話を今の自分が聴くことになっていた。

 

誰でもちょっとは昔のことで流していることはあるはずだ。ワタシは子供の頃小遣いがなかった。でも良いと思っていた。それはウソといえばウソだ。子供だったわけだkらやっぱり小遣いくらいは欲しい。

たとえばこういうことをワタシはずっと流してきた。自分にウソをついていたといえばウソをウソをついていたのだ。でもそうでも思わないとやってこれなかったのも事実だ。

ただどういうことであったとしても長年自分が自分についていたウソを認めることができた。

 

これは一つのことだが。

 

そしてどうことをしたからこういうことができたのかはよくわからない。

 

ただ昔から言ってはいたのだ。「自分お病気がもし治るとしたら、それは治るときが来たから治るんだとしかいえない」と。

 

 

差別と職業蔑視の現実

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上は現代ビジネスの記事の引用だ。筆者は小林 一哉。

 

小林は川勝知事はスケープゴートにされたようなことを書いている。

一面これは当たっている。

 

日本中にひどい職業蔑視が溢れている。あるいはひどい差別もだ。

前にNHKのドラマで元キャバクラ嬢が宅配の仕事を始める物語があった。この物語ではキャバクラ嬢はダメな仕事だ。

他にも清掃の仕事はくだらない仕事のように扱っていたドラマもあった。

 

日本の大手新聞は宅配を行ったいる。そして「宅配を守る」と言っている。だがそういう言っている(そういう記事を書いている)新聞社の連中は新聞配達はしない。いろいろいってもその理由は新聞配達のことも新聞配達員のこともバカにしているからだ。

NHKでいえば受信料を集める仕事もそういう仕事をされてる方のこともNHKのアナウンサーやディレクターたちはバカにしている。

朝まで生テレビで管さんが何やらひどい差別発言をしたようだ。ここをワタシは見ていない。ただ司会の田原総一朗が「ひどい差別」といったのだ。すると管さんは「今のが差別だというのなら誤ります」といった(はずだ)。

 

川勝知事の発言についてだ。

発言の中にでてくる「野菜を売ったり、牛の世話をしたり。モノをつくったり」というような仕事に関して。

ある考え方ではこういう仕事は「尊い仕事」あるいは「大事な仕事」となる。

だが「野菜を売ったり、牛の世話をしたり。モノを作ったり」する仕事はおそろしく頭を使う仕事だ。バカではできない仕事。頭脳労働。

 

だが川勝知事はそう思ってはないないのだ。頭なんか使わない仕事だと思っている。

こういうことを差別という。

 

ここは感謝する。

差別の定義ができた。

①事実を誤認している。

②あるひとある職業あるグループをバカにしている

③事実を誤認している本人に事実を誤認しているという自覚がない(自覚すらない)

この3つの要素を満たしていることを「差別」と呼ぶべきなのだ。

 

日本全体がこういう差別のつけを払うことになるようだ。

 

もう出ているのが運送業。物流が麻痺したらいくらお金があってもモノが買えない。バス鉄道地下鉄が人手不足で動かくなったら公共の交通機関でしかうごいてないひとたちは動けなくなる。

 

そうなったら川勝さんも記事の筆者の小林 一哉もどうするんだろうね。管さんも。

資本主義と市場原理の葛藤

今の日本は資本主義ではない。共産主義でもないからなに主義か不明だが権威主義かもしれない。

 

資本主義=市場主義だ。資本主義なら市場主義が働いているはずだ。市場原理万能主義にワタシタチは疲れているようなのだが今の日本が資本主義ではない(それは市場原理が働いてないからだ)のだからワタシタチは資本主義に疲れているわけではないのだ。

 

具体的には多くのひとがやりたがらない仕事は市場原理が働いていれば給料がよくなるはずだ。だがそうなっていない。また多くのひとがやりたがる仕事も市場原理が働いていれば給料が安くなるずだがそうなっていない。

 

実際そうなってないのだから今の日本は資本主義ではないのだ。でも共産主義でもない。謎の国だ。やっぱり権威主義なのかもしれない。

 

成果報酬システムという。日本企業もずっと成果報酬システムだった。だが日本企業の成果報酬型にはタイムラグがある。成果を出したひとは出世する。出世すると給料がよくなる。そういうカタチの成果報酬システムだった(過去形か)のだ。

 

いつの間にか日本が資本主義ではなくなったことには日本型の成果報酬システムが関係しているのかもしれない。

 

ミヒャエル・エンデの「モモ」の物語は当たっているかもしれない。


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ミヒャエル・エンデのモモは時間ドロボウに時間を奪われる話だ。

さっきの話でいうと「仕事で良い結果を出せば出世して良い給料になる」のが日本企業の成果報酬システムだ。

 

でもこの日本型を成果報酬システムを逆算して「出生して良い給料になるためには仕事で良い結果を出さなければならない」という発想になると違う話になる。

 

理由は簡単だ。時代も変われば世間も変わるからだ。具体的には仕事をガンバッテ良い結果を出したとしても出生して良い給料になるとは限らない。会社の方向性が変わってラインから外れることもあるしその業種自体が厳しい業種になることもあるから。

 

話がまたそれる。大きな夢をみるひとで大きな夢が大きな夢のままで止まるひとと100個なり500個なりの細かい具体的なことに分かれるひとがいる。昔から視覚イメージが重要だとはいうがここをよくわからない。

 

たとえばエベレスト登頂すると言ってもわけがわからない。これをたとえば大きな夢だとしよう。エベレスト登頂という大きな夢を学生だったら登山部に入るという風になるひとならはわかりやすくなる。登山部がある高校なり大学を目指すということになるしこうなったひとは高校受験なり大学受験の勉強をすれば良いからだ。

違うカタチでアウトドアショップに行くとか登山やアウトドアの本や雑誌を買うということになるひともいるだろう。そして細かく分かれたことの一つが「今日バイトに行く」であったらその日バイトに行けば良いのだ。

 

ワタシもちょっとファンタジーを考えたことがある。主人公はミライのためにずっとガンバルのだ。良い未来のために今は苦しい思いをしている。子供の頃からずっとだ。そして主人公はあるときに気がつく。子供の頃から自分はイヤな思いしかしていない。そしてこのまま頑張ったとしても良い葬式をあげるだけなんだと。もちろんそれは自分のお葬式だ。

 

また話がそれる。ワタシはずっと不幸で下げ止まっている。こうなると目先のことしか考えない。1週間後のことを考えると苦しくなってしまう。だから目先目先のことだけで数十年を過ごしてきた。

今から思うとあれはあれで正解だったなと思うのだ。

 

 

聖徳太子から金剛組へ

すべて敬称略。

 

江戸末期の江戸幕府のガワに優秀なひとがいたんだということをいう人たちがいる。ワタシは「アホか」と思っていた。

というのは江戸末期の幕府は制度疲労を起こしていたからだ。制度疲労を起こした組織(?)の中にいれば優秀なひとでもチカラを発揮できない。そしてそう状況を制度疲労と呼ぶものなのだ。

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上は現代ビジネスの記事をヤフーが引用したものの引用だ。この記事の内容は知っていた。堤未果が著作で指摘していたからだ。

韓国についてワタシはいろいろと思う。正直悪い気持ちになることが多い。だが韓国はとっくの昔に植民地になっている。今の時代の植民地はその国の(主に)企業経営に参加するカタチで行う。企業の株を所有したり関連会社を所有する。こういう植民地を金融植民地という。これができるとその国のひとがガンバッテ働くと自分たちにお金が入ってくる。

韓国の場合は通貨危機の時にやられた。近隣諸国もアジア通貨危機の時にそうとうやられた。やられたという意味は植民地にされたということだ。

金融植民地になることには当然問題がある。

今の世界の多くの国は民主政だ。民主政では選挙で政治家を選ぶ。金融植民地になると(あるいは近い状態になると)世論がコントロールできる。世論がコントロールできると献金を渡さなくても自分たちが良いと思う政党政治家を当選させることができるのだ。

これが非常に困ったことだ。

国のルール(具体的には法律)を作るのは国会で国会にいるのは選挙で選ばれた政治家だからだ。

 

金融植民地にする方法は基本3つ。三種類だ。

1つ目は今書いた通貨危機が起きたときに。

2つ目はその国が債務危機に陥ったときに。

ある国が債務危機に陥ったときは定石ではIMFが救済にはいる。IMFは救済に入るときに条件をつける。これは当然だ。「お助けしますからこういうことは守ってくれさいね」という条件をつけるのだ。だがこの条件がエグイ。この条件がエグイので結果その国が金融植民地にされてしまう。

 

だいたい韓国の話題は出るが韓国が植民地にされたんだという話はまったくでない。これはやっぱりおかしいとしか言えない。

 

3つ目は「ショック・ドクトリン」だ。大きな災害が発生したようなショックなことが起きたときにだ。

これが日本で行われている。だから日本も植民地にされつつある。ただここいう植民地というのは今書いた金融植民地だから昔の植民地ではない。


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上はマットディモンのボーンシリーズの名場面だ。

ボーンシリーズはもちろんフィクションだがこの映画の内容はそうとうリアルだ。主人公は洗脳(?)されているがこれに近いことは実際行わていた。何作目か忘れたがジョブズのような人物が出てくる。


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話が飛ぶが北朝鮮がいよいよ危ういとワタシは思っている。いつの時代にも一番強いのは情報だ。お金でも食べ物でもなく情報が一番強いものなのだ。過去にはゼロックスコピー機)で体制崩壊が起きてる。東西ドイツの統一には衛星テレビ(BS)の影響が大きかった。韓国と北朝鮮は当然同一言語だ。アクセントは違うのだうが。

北朝鮮の人たちは韓国のエンタメを観ているはずだ。KpopのPVや韓国のドラマ、韓国の映画。あんなものをみて北朝鮮の現実に耐えられるはずがないではないか。

余談だがプロパガンダプロパガンダという意図がなく作られた作品の方がプロパガンダとしての効果が高くなる。プロパガンダはある種の宣伝だ。プロパガンダというという意図が明確にある作品はプロパガンダとしての効果が弱くなるものなのだ。逆にプロパガンダという意図がない(あるいは薄い)作品には強いプロパガンダとしての効果がある。

韓国でエンタメを作っている人たちには北朝鮮に関する意識はほぼないはずだ。そういう仕事にはプロパガンダとしての効果が極めて高いのだ。

 

エンタメも当然情報だ。

 

ただもう成功例もでている。前にも書いたがそれは組合だ。労働組合のような組合ではなく漁協や生協のような組合。

日本には近江商人のようなギルドがある。村上春樹の「アンダーグラウンド」を読んで「近江商人」の伝統は残っていたんだと思って驚いた。

 

また話が飛ぶが白川静の研究で「なるほど」と思った。孔子はどうやら葬儀を司るひとだたようなのだ。そして墨子孔子を軽んじるような扱いをしている。墨子の坊は墨だがこの墨はどうやら入れ墨だ。そして墨子は橋や城を作るような人たち。

墨子をちょっと乱暴な職人集団だと考えると墨子が葬儀を司る孔子を軽んじるのは感覚的にわかる気がするのだ。

日本では伝説かもしれないが聖徳太子が命じたという逸話を持つ人たちが今もいる。

世界最古の企業といわれる金剛組がそうだ。

 

歴史や伝統があるから偉いわけはない。そういう歴史や伝統があると感覚的に「組合」やギルドに馴染みやすいということが重要なのだ。

メディアと生活保護の関係

生活保護バッシングがらみの記事を引用しようと思ったのがやめた。たいていそういう立場であろうメディアだったからだ。

 

ただ片山さつきは絶対許さん。片山は生活保護バッシングをした後朝まで生テレビに出ていた。そして偉そうに「いいですか。医療費まで無料なんですよ」といけしゃあと言っていたのだ。

 

日本から病気になっても医者にかかれないひと(もちろん子供もだ)がいなくなったことは一回もない。1980代であってもだ。

カネがなくて身体を売った挙げ句に自殺したオンナがいなくなったことも一回もない。

 

橋下徹も絶対許さん。あいつは私立高校に行きたい(行きたかったのか?)という娘さんを泣かせていた。

彼女が言っていることはもちろん甘い。甘いのだが偏差値が低い公立高校を作らないとしょうないだろう。私立は学費が高いんだよ。橋下は偏差値が低い公立高校を作ったのか?

 

ウチは兄貴が私立高校に言ったから絶対公立だった。もし公立に受からなかったらどうしようと思っていた。なんとか受かったから良かったけど。娘さんを泣かせる前に自分がやることをやれよ。

コッチにはそういう公立高校がある。ワタシより若い世代の友人がその高校ができてsぐの時期にその高校に言っているが入学してすぐ教師から「お前らはホントに頭が悪いから」といわれたといって笑っていた。でも彼は高校に行けている。

別の若い世代の友人もそれで助かっている。

べつに中学出てすぐ働きたいのならそれでも良いんだけれども実際そういうひともいた。

ヒガミになるからみんなこういうことはいわない。人それぞれだからと思ってダマっている。

 

だが子供の頃からスポーツができた子供ばかりではない。塾に行けたり習い事ができた子供ばかりではない。そんなことは当たり前だ。

 

ワタシの世代はそういう子供たちはたいていボーっとテレビを観ていた。カネがないんだからしょうがない。だが後の世代はもっと大変だった。

 

イヤミを書いておく。橋下徹は高校の時ラグビーやってたんだよね。さぞかし充実した高校時代だっただろうね。大学は早稲田だったよね。学費も生活費も小遣いも親に出してもらってたの?良い身分だね。

片山さつきはどうだったの?子供の頃から勉強もスポーツも習い事もしたい放題だった?そう良かったね。

自分たちはそういう良い思いを散々しておいでよく生活保護バッシングができたもんだ。

 

自慢しとこう。ワタシは中学の時には部活動はできなかった。カネがなかったからだ。それにオフクロに主にやってもらっていたけどヤングケアラーもやっていた。その後も介護関係医療関係のみなさんに協力してもらいながらだけど両親の介護もやった。

片山さつき橋下徹は親の介護をやったの?世代的に親の介護をやっていても全然おかしくないのだが。そういうことはしなかった?それが保守思想ですか。

 

左も無意味にセンチメントだったりするだけで実効性があることはしないひとが多い。

前にあるひとに中学で部活動ができなかったという話をしたことがある。その時彼は「遠慮されたんですね」と言った。こういうことだからコッチが言いたくなくなるんだよ。遠慮したんじゃないんだよ。単にカネがなかっただけだ。それを「遠慮されたんですね」とかいわるとコッチは本当にイヤなんだよ。

 

ただ風向きは変わってきた。NPOだ。正直あんなものだと思っていたのだ。だが多くのNPOはそうとう実効性があることをやっている。