世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

存在給とは何か?人を変える力

2ちゃんねるの抜粋なのか「生活保護受給者」をバカにするような発言があったので激怒した。それでちょっと書いてみる。

 

ああいう連中にはバチが当たる。

 

前にも書いたが心屋仁之助というカウンセラーが存在給といっている。存在給というのは自分が何もせずダラダラ暮らしている時に自分が自分に出す給料のことだ。

コレ(存在給)が低いひとは基本ガンバル。そしてガンバッテいるときにはお金が入るのだがそういうお金がなぜかなくなってしまう。これはワタシもそうだった。

 

https://bunshun.jp/articles/-/45692

 

上は文春onlineの記事のURLだ。相模原の45人殺傷事件の記事だ。

あの犯人を異常な思想犯のようにいう声もあったがワタシはそうは思わなかった。あの犯人みたいなことを言っている連中は山のようにいるからだ。そしてそういうことを信じているであろう連中もずいぶんいる。

だからあの犯人もそういうことを信じているヤツだったのだろうと思ったのだ。

 

だがあの犯人自身はどうなったのだ。人殺しになって刑務所にいるではないか。まだ死刑にはなっていないのか?

 

あの犯人はさっきの言い方でいうと存在給が低かった。それは彼自身のだ。ヤツはそういう自己認識でしかなかった。自分の存在給が低かったから人のことも許せなかった。そしてその結果(そういう思想の結果)ヤツは人殺しになって死刑の判決を受けて刑務所にいるのだ。

 

昔から「罪を憎んでひとを憎まず」とはいう。

 

ヤツの場合の罪はもちろん殺人だ。でもそういう(存在給=0)という思想でもあった。

 

存在給=0もしくは存在給が極めて安い連中が生活保護受給者をバカにするようなことをいっている。それが政治家や役人であっtも同じことだ。

 

そしてそう(存在給=0)なっているのがそういう連中に当たったバチだ。

共同体の感覚と政権交代

鈴木おさむがハゲなのかどうか知らないがここでは「あのハゲ」と書く。

フジテレビのバラエティ番組で昔オレたちひょうきん族という番組があった。横澤アキラという有名なプロデューサーが「コンビトリオの目立っている方だけで番組を作りたい」と思って作った番組だ。吉本も「まあいいでしょう」ということだったらしい。

こいいうことが素晴らしいとは思わない。ただ「仲間内だけよければいい」ということではない。

あのハゲが関わった番組ではたいてい陰惨がことが起きている。それは仲間内だけよければ言いというあのハゲならびに番組スタッフの思想発想が原因だ。

挙げ句の果てにスマップを題材にした無意味にセンチメントな小説もどきを書いてお涙ちょうだいするしかなくなっている。

あのハゲが「仲間内だけよかればいい」ということでやってきているしだいたい本人が陰気くさい。あいつの仕事もいつも陰気くさい。

 

ついでにいうと時代感もずいぶん前から外している。

何度も書いているが最初の株価暴落がバブル崩壊だとするとバブル崩壊は1990年の1月だ。テレビ等でバブルの様子としてずっと放送されているジュリアナ東京バブル崩壊後のことだ。

あのハゲは今だにジュリアナ東京にいるつもりだ。そういうことだからお前はハゲちまうんだよ。

若い世代は「浮かれまくって日本をダメにした連中がまだ浮かれている」ということに激怒しているのだ。

仕事があったこと以外には当時良いことがなかったワタシも激怒や憎悪の対象でしかない。

 

おまけに時代感も外している。あのハゲは大映テレビ的なことをやったドラマの脚本を書いている。大映テレビの全員は当然大映だが大映の映画はどこか暗い。

大魔神」と「ガメラ」もそうだ。大映大映テレビになってもやっぱりどこか暗いのだ。大映テレビもやっぱりどこか暗い。

だから暗い時代には大映テレビの作品はフィットする。だから1980年代にはあわなかった。時代にあわなかったのだ。

 

だがそれをずいぶん後になって「大映テレビ的なことをやったら面白いんじゃないのかな」などと思ってしまうのは単なるオヤジのノスタルジーだ。正確に書くと陰気くさいツルッパゲのバブルはとうの昔に終わっているのに今だにジュリアナ東京にいるつもりの時代錯誤のオヤジのノスタルジーだ。浮かれまくって日本をダメにしたオヤジのノスタルジーだ。

 

あのハゲがそういう仕事をしている時期には日曜劇場等で大映テレビのドラマがヒットしていていた。当然そうなるはずだ。時代が暗かったからだ。

 

お前にあのハゲは話も通じない。だから大昔からミュートされている。「いうだけムダ話を聴くだけムダなひと」という認定をされている。それをミュートされているというのだが。

あるドラマの時若い役者から「こんなことやってて大丈夫なんですか」といわれている。あのハゲは「オレはリスキーなことをしているゼ」と自分に酔っているからわけがなかったない。

 

その役者がいっていたのは「こんなつまんないこをしてて大丈夫なんですか」だ。

あのハゲは無意味に自分に酔ってるからわけがわかんなくなっている。

 

以下はちょっとマジメな話だ。

吉本隆明が共同体のあり方について考えていた。元はヘーゲルだろう。

日本はアジア的な共同体だ。これが変わるのかどうかは正直わからない。ただ共同体のあり方で日本はひどく混乱している。

 

江戸時代の話。

rinto.life

 

筆者は江戸時代の武家を江戸リーマンと呼んでいる。このタトエは当たっている。そして上級市民というのはリーマンなのだ。上級市民というのは収入の問題でもないというのはリーマンが上級市民だからだ。

当時は身分制度があったからなのではるが改易のよなことがあっても領民にはお咎め無しだった。

今の日本でいろんなことがある。たとえば企業で不正が行われたようなことだ。こういう時にワタシも世間もなんとも混乱してしまう。それはあるひとがその企業の社員だからといって責任をウンウンというのは違うような気がするからだ。

 

これはワタシたちは「藩になにかあって藩の連中まり武家は改易になったとしても領民にはお咎め無しだ」と今も思っているからだ。

 

実際ワタシたちはそういう風に今も実際思うのだからこの感覚に基づいた制度を作るべきなのだ。

ある企業に問題があった場合は社長は飛んでもらうとか部長以上は飛んでもらうのように。

 

そして吉本はこれをアジア的な共同体と考えていたようだがトルコやロシアも一緒だと思う。こういう共同体の感覚だが。エルドアンさんもプーチンさんもやっぱり長期政権いなってしまった。ああいう人たちは結局そうなるんだなとは思う。

 

ただ共同体の感覚はトルコもロシアも一緒だと思うのだ。でも中国は違う気がする。すぐ隣の国なのだが。

疎外された日本の消費者マインド

オタキング岡田斗司夫がコロナ禍が第三次世界大戦だったといっている。世界大戦は4年間だ。第一次世界大戦も4年、第二次世界大戦も4年だった。日本の場合はすでに中国との戦争があったので状況は少し違うのだが。

コロナ禍が2020年からスタートしたのだとすれば2020年、2021年、2022年、2023年の4年間がコロナ禍で第三次世界大戦だった。

そして今は戦後で戦後体制を構築中だ。

 

敗戦後と同じようなことがあるような気がする。

敗戦後にあったことをいつかあげる。

ハイパーインフレ

農地開放

財産税導入

財閥解体

労働組合の奨励

 

ハイパーインフレというのは物価が1000倍くらいになるのが普通らしい。戦後の日本では物価は300倍程度にしかならなかったからそういう意味ではハイパーインフレとは言い難い。

そしてワタシは今年そういうことが起きると思っている。理由は国に膨大な借金がかrではない。流通網の破綻だ。具体的にはトラック業界がもう限界だ。とっくの昔に限界は越えているのだがみなさん必死にガンバッテいらしゃる。だが民間企業なわけだし倒産してしまえばガンバルもなにもなくなる。そうなると缶コーヒー一個でも競り合うことになる。オークション状態になるのだ。そういうふうになれば物価が競り上がってしまうことは普通に起きる。

今の日本でハイパーインフレが起きるとすればその筋で起きるはずだ。

 

農地解放と財産税導入と財閥解体だ。これを行う(これが起きる)可能性がある。

 

これはもともとは太宰治の小説に関するいろいろからあるかなと思っていた。「斜陽」だ。「斜陽」は有産階級没落の物語。

まず有産階級の説明からだ。有産階級というのは財産があるから有産だ。財産を有する階級で有産階級。そして財産がある人たちは働かないのが普通だった。戦前の日本にはそういう人たちが普通にいた。ただそういう人たちが芸術家のパトロンをやっていたこもあったし有産階級=悪ということではない。

当時は新聞なのだろうが「斜陽」から「社用族」といっていた。マスコミの言語センスは昔から変わらない。具体的には「領収書」という人たちだ。だがバブル崩壊以降は大企業であってもそんなに簡単に交際費など認めない。だから今年は「社用族が斜陽か」と思っていた。

そしてもし社用族が斜陽なのだとすればその意味は財閥解体でしかない。

 

戦後の日本では激しいインフレが起きた。代表的なのが土地の価格だ。土地の価格が膨大に値上がりした。これが即悪いとは言えない。だが土地の値上がりにより日本の中で不均衡が生じている。この不均衡をなんとかする必要がある。

その方法にはいろいろあるだろう。だがこの処方箋として財産税導入があるような気がすrのだ。

子供家庭庁で世間の資産情報は把握ずみのはずだ。それにインボイス制度導入。インボイス制度で企業やフリーランスのお金の状況も把握されたはずだ。

そういうことから考えると財産税導入があってもおかしくない。というよりああいうことが財産税導入のための布石だった可能性もある。

名前は出さないが元キャリア官僚が「消費税は15%にするしかない」といっているようだ。いろんなアナウンスはもう終わっている。

あるとすれば7月だと思う。新しいお札が出る時だ。

 

最後が労働組合だ。もう法整備は終わっているのだが今回の組合は労働組合ではない。生協や漁協のような組合だ。

時代を代表するマンガとそういうマンガのセリフがある。先日他界された鳥山明は「ワクワクすっせ」だった。ドラゴンボールだ。

その後はワンピースの「オレは海賊王になる」だ。

人間は論理的な存在だ。だから理屈の辻褄が合wないと苦しい。変な話のようだが「幸せになろう」と思うのなら幸せになるための論理が必要になるのが人間なのだ。こういう論拠があってそれが論理的展開して整合性があるからワタシは幸せになっていいと思えないとしあわせになってはいけないように感じてしまうものなのだ。

スティーブ・ジョブズは「自分は革命軍だ」と実施あに思っていたような気がする。本来才能があって努力して王様になることは素晴らしいことだ。そして誰かからとやかくいわれる筋はないことだ。だが「自分は革命軍だ」と思っていたひとが王様になったときに論理的な辻褄が合わなくなる。論理的に破綻してしまう。

でも最初から「オレは海賊王になる」と思っていたひとが実際王様になったのなら論理的な辻褄は完璧にあっているのだ。

 

また今の日本人は消費者マインドだ。ワタシはずっとサービス業だった日本人の消費者毎度には文句が山のようにある。

疎外という。

 

これは孫引きなのだが疎外の例としてマルクスがあげているのが女衒(ぜげん)らしい。池上彰と佐藤勝の対談で知った。

 

疎外にはせクシャルなイメージがある。上は比留間久夫の「YES・YES・YES」だ。これは優れた青春小説だ。この話はゲイだというわけではないのだが男性に身体を売っている若者たちの話だ。この小説にとても女性にモテる男がでてくる。彼は「自分はセックスから疎外されていると思った」というのだ。

それはともかく。女衒(ぜげん)の例でいうと疎外から逃れるためには女衒(ぜげん)をやめるしかない。

 

そして消費者マインドの日本人もやはり疎外されている。変な言い方かもしれないが消費者マインドの日本人は労働から疎外されているのだ。マルクスがつかっていた疎外という概念をこういう風に使って言いものかどうかしらないがそうだ。

もう一度書く。

消費者マインドのの日本人は労働から疎外されている。

 

この「労働からの疎外」から逃れるためには普通に働けば言い。その方法として生協や漁協のような組合という存在(あり方?)が重要なのだ。

日本の失敗と技術革新

日本から革新的な技術が出てこないと長年言われている。だが実はそうとう出ている。そういう技術やそういう技術を開発したひとを応援するどころか邪魔した挙げ句につぶしてきているのが日本社会だ。

つぶしているのは外国ではない。日本人だ。

そういう連中(日本人)が巨額の予算を使いなにか新しいことをしようとするがたいてい失敗している。そういう連中が寄り集まってやっているからなのではあろうが。そういうことで大失敗しても誰も責任を取ることもなくなんとなく済ませている。

 

そしてそういう連中が「なぜ日本から革新的な技術が出てこないのか」といっている。

 

お前らが潰してきたからだろう。お前らが応援しないばかりか邪魔した挙げ句につぶしてきたから日本から革新的な技術が出てこないんだよ。

 

例外はある。通信カラオケだ。あれはカラオケということだったからそういう連中は気がつかなかった。

 

でもそもそもおかしい。なぜ日本人のやる画期的なあるいは革新的な技術やアイディアを同じ日本人に邪魔された挙げ句に潰されなきゃいけないんだ。

 

そして目立ったひとはなんらかの理由で逮捕されている。逮捕される以前にマスコミでボコボコに叩かれるのだが。

 

こういうことに右も左も関係ない。

 

安倍さんが暗殺された。まさか日本であんなことが起きるとは思っていなかった。正直安倍さんのことは嫌いだった。でも日本であんなことが起きたことは本当にショックだった。

安倍さん応援団という人たちしワタシのように安倍さんを嫌うひともいた。

安倍さんはアベノミクスだから消費税はあげたくなかったんじゃないの?

だから安倍さんを応援している人たちは消費税には反対するのが筋だった。

そして安倍さんを嫌うひとは消費増税に賛成するのが筋だったはずだ。

だが現実はそうではなかったのだ。

 

あの頃もう日本の政治言論状況の混乱は限界を越えていた。

政府とマスコミの問題:成田空港事件の真相

ja.wikipedia.org

 

羽田空港で事故があった。ワタシは素人だからなとは思っていたが・・・。

 

成田空港が大失敗した。あの原因がわからない。成田空港が失敗したので東アジアのハブ空港は韓国にもっていかれた(はずだ)。成田空港は地権者に土地を売ってもれえなかったという理由で失敗した。国が土地を取り上げるのではなく売っていただくのだ。日本中で「あれがウチにかかれば」という話がある。なのに成田空港の場合はこれに失敗している。だから何か特別な理由や原因があったと思うのだがそれがさっぱりわからない。

そしてこうじうことを誰も(ワタシが知らないだけなのか?)調べない。

 

そして羽田空港だ。羽田に限らず都会に近い空港は騒音の問題もあって24時間の運用は難しい。

 

そうすると当然混雑する。羽田はとんでもないラッシュが日常的に続いているはずだ。

 

事故の原因はコレなのではないのか?羽田空港ではとんでもないラッシュが日常的に続いているということだ。

 

もしそうだとすればあういう事故があったのだから羽田空港のラッシュをどうにかして緩和させるという政策を取るのが筋だ。もちろんワタシは素人なので羽田空港のラッシュがひどいものなのかどうかは不明なのだが。

 

 

関西空港は何だったの?関空ができたら伊丹はもう使わないという話だったではないか。

 

政府が悪いというのは簡単だ。官庁がおかしいというのも。だがマスコミもおかしいではないか。なんで調べないんの?というよりなんで考えないの?

おっと「なんで」と聴いてはダメだったのか。

「困りましたね。これをどうしたら良いんでしょう」と聴かなきゃいけないんだ。

「whyと聴いてはいけません。質問はhowでするんです」だった。

「なんでできないの?」と聞かれても知らんよね。それがわからないからできないんだから。

ではあるがなんで一般市民の素人がこんなことまで気を使わなきゃいけないんだよ!

倒産寸前のテレビ局とギャンブル依存元通訳

大谷翔平のの元通訳がギャンブル依存だという話だ。依存adictionの話だがその前にテレビ局は普通に考えると倒産寸前だ。そうだとしか思えない。視聴率ウンウンということもあるが民放のCMだ。大手企業はCMを打っていない。ということは大手企業は広告を出す先としてテレビ以外を選んでいるということだろう。

そうだとすれば民放は倒産するしかない。そしておそらく代理店のような今の民放を支えているところはガンバッテいるのだろうが「もうテレビを支えなくても良い」ということになれば彼らもホッとするだろう。

だいたいいわゆる地上波は5個も6個もいらない。ワタシはそうだ。通信もあるわけだからNHKはそういうことも含めて「公共放送通信」としかやり直してもらう必要があるが。民放はどうしたものだろう。キー局が東京に一つ大阪に一つでも良いと思う。

新聞も取っているところは少ないし雑誌が売れているのかどうかも不明だ。そうなるといわゆるマスコミは全部厳しいということになるのだが・・・。、マスコミが全滅してもらうのも困る(ような気がする)。

 

それはともかく。依存adicitonだ。これを麻酔だと考えるのが一番わかりやすい。フロイトがいうトラウマ心理的外傷を抱えていて精神的な痛みを感じているひとが酒やギャンブルで精神的な痛みを紛らせているのだというふうに考えるのだ。

話の筋としてはこれが一番わかりやすい。

 

ワタシジシン依存adicitonはあるのだが対象はタバコだ。タバコなら良いわけではないが依存adiciotnの対象が酒だったらワタシは死んでいた。飲み方がおかしかったのだ。ただ酒は覚えないウチに辞めたからなんとか生きている。

 

そして過去いろんな治療法をやってきている。そういうことにはあまり意味はなかったと思っていたのだがそうは言ってもいろいろやってきているうちに徐々には効果が出ていたようだ。

 

過去の(子供の頃の)出来事を違う視点でみるであるとか。過去の実際のエピソードを映画館で観客として観ているようにする訓練。過去のエピソードを相対化するという意味だったのか。他にもいろいろやってきた。自助グループというものがあるのだがそういうところに参加していた。

 

そういうことに意味や価値があるとは思っていなかった。自助グループの仲間と不道徳なことを言っていたこともあった。親の悪口とか世間の良い思いをしている人たちに対しての悪口やいろいろ。昔からいうように「言わないひと」の方が危ない。いっている連中は意外と安全なものだ。

西尾和美のアファメーションのCDを聴いていた時期もある。

そういうことに効果があったんだと思うがどういうふうに効果があったのかは不明だ。

 

フロイト精神分析の対象を個人だとしたがこれを集団だとするひともいる。日本では岸田秀がそうだ。岸田は開国が日本人にとっての屈辱経験で日本人という集団全体が内的自我と外的自我に分裂しているんだと考えている。

そんな簡単なものではないが

内的自己=誇大妄想史観

外的自己=自虐史観

ということだ。

そして日本人という集団全体は「内的自我=誇大妄想史観」か「外的自我=自虐史観」でしか考えられないのだという話なのだ。

内的自己=誇大妄想史観=右

外的自己=自虐史観=左

ということでもある。

 

明治以降の日本で「内的自己=誇大妄想史観=右」が前に出ている(分裂しているのだから内的か外的自己のどちらかが前に出るしかない」時代には日本はうまくいってない。

「外的自己=自虐史観=左」の方がまだ現実を対応できているからだ。なにしろ外的自己なのだから。

 

そして「内的自己=誇大妄想史観=右」は誇大妄想的なわけだから幼稚なのだ。精神的に幼い。

 


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上はスティーブン・キング原作スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」。

この映画をそういう風にみる必要はないがジャック・ニコルソン演じる小説家のお父さんはアルコール依存症だ。そして酒乱。実際アルコール依存症というのはああいうものだ。作家のお父さんはイライラしているし不快な夢を見ている。ああいうことが酒を飲むと収まる。そういうふうにしているウチに依存が深まっていく。

 

依存adicitonについては論点になっていくプロセスが存在した。それがこの問題をややこしくしているのかもしれない。たぶん1970年代のアメリカでだ。酒に溺れている亭主や彼氏にひどい目にあっている女性を救い出す動きがあった。ボランティアがそういう女性たちをなんとか救い出してシャルターのような場所にかくまっていたのだがしばらく経つとそういう女性たちの多くが「あのひとはワタシがいないとダメだから」と言って亭主や彼氏の元に帰って行った。帰るとまた彼女たちはまたひどい目にあってしまうのに。そして調べてみると彼女たちは酒浸りの父親の元で育っていた。

そうすると彼女たちにもなんらかの病理があると考えざるを得ない。こういう女性たちをさして「共依存」と呼ぶようになった。

問題は彼女たちは酒を飲んでいないということだ。

 

こういう経緯がなければもっと違う話になっていたはずだが歴史にイフはないのだ。

 

ワタシはタバコは辞められていない。自助グループの友人たちにひどくマジメなひとが多かった。

酒は飲まない。タバコは吸わない。ギャンブルはしない。

そのあたりは聴いたことがないがワザと子供を作らなかったのではないかという友人もいた。

 

彼らはいろんなことで問題を起こしてはいない。ワタシにもそういうところがあったのだが「そういうふうになったら自分はヤバイ」思っていたんだと思う。子供がいたら虐待しかねないと思っていたような気がする。

 

 

 

司馬遼太郎はまったく読んでいない。なぜか読む気にならなかった。

そういえば余談だが最近「本が読めてる」と思った。ずっと本がよめなかったのだ。ほかもひどかった。でもずっとそうだったから「こんなものなのあかな」と思いこんでいたがそうではなかった。

 

ただ「坂の上の雲」というタイトルは示唆的だ。内的自己は誇大妄想的だ。だから限りなく上昇しようとする。上昇してどうするという観点はない。それが内的自己=誇大妄想史観の特徴だからだ。

 

明治以降の歴史と敗戦後の歴史はそっくりだ。明治以降では明治の元勲たちがチカラをもっていたうちはまだ安定していた。彼らが100%よかったとは思わない。だが彼らがチカラを失っていくと日本はおかしな方向に進んでいく。

敗戦後も同様だった。「三中大角福」という言い方があった。三木さん中曽根さん大平さん角栄さん福田さん。この世代は戦中派だ。

明治の元勲たちもいわば戦中派。戦中派がいなくなった頃から戦後日本もやはりおかしくなっている。

 

ただ救いはある。

歴史学者磯田道史がいっていたのだが幕末を代表する名君に鍋島のお殿様がいる。このお殿様は子供の頃参勤交代の途中で参勤交代が止まってしまう。お殿様はカゴのなかにいらした。まだ子供だったのだが。当時鍋島藩の財政が逼迫していて借金取りに止められたのだ。このお殿様のお父様は子供にいろいろ任せてしまう。この方が幕末を代表する名君のお一人になる。

 

若手の経済学者が年寄りは集団自決といって顰蹙をかった。あのひとのお父さんが疾走されているはずだ。そういう個人的経験は侮れない。ひろゆきwinny事件は死んでも忘れないはずだ。ワタシにもあの件この件という個人的経験がある。そういうことがあって連合という名前を聴くと腹が立つ。まして若い世代の怒りは尋常ではないのだ。

 

彼らが明確にそういうことをいうことは基本ない。それは彼らがいえなくくらいに

怒っているということだ。彼らが上っ面礼儀正し愛想は良いが内心は「駆逐してやる」でしかない。


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彼らが駆逐したいのはワタシタチだから気をつけなきゃ。

フケキセツとかいってる場合じゃないんだよ。「日本をダメにしておいてお前らまだ浮かれてんじゃないか」ということでしかないから。

統合失調症回復の記録 52 厄年

厄年のもともとの意味は知らないがあのあたりは人生のターニングポイントのようだ。これはワタシがそうだったしワタシの友人にもそういうひとが多かったからそう思うだけだが。

厄年には悪いことが起きるという。実際ワタシも数えの42才と61才には悪いことが起きている。

だがこれは考え方だ。その当たりが人生のターニングポイントだとするとターニングポイント(曲がり角)をうまく曲がれるひともいるしガタガタあって曲がるひともいる。

もっというとガタガタくらいにないと曲がれない(変われない)ひともいるということだと思う。

 

病気も離職も人間関係の破綻も悪いことだ。だがたとえば病気になってしまうといくら本人がガンバロウと思ってもガンバレなくなるし周囲も対応せざるを得なくなる。本人は失意と激怒だとしても、それくらいのことがないと人生のターニングポイント(曲がり角)を曲がれない(変われない)こともあるのだ。

本人にはそんなことはいえないが介護離職したひとのなかに離職したほうがよかったひとがいる。

 

ワタシは数えの42才の時に離職している。その時は失意と激怒でしかなかった。というのは裁判にすれば勝てるくらいだったからだ。だが裁判に勝ったとしても具体的に何をしいということが浮かばなかった。

 

ワタシが離職した後リッチ・シェフレンの本を読んだ。そうしたらリッチ・シェフレンもある時に離職していた。彼は本気で裁判を起こすつもりだったのだが奥さんが辞めて欲しいといったので裁判にするのは辞めている。彼がその時何歳だったのかは知らないが。

 

ひとのことはよくわかるものだ。

テレビで亀田家のご長男に下のご兄弟たちが困っている様子が放送されているのを観た。

専門用語を使うと話がわかりづらくなるので専門用語は使わない。子供の頃から大人の役割をやってきたひとが大人になって問題を抱え込むことは以前から指摘されている。

亀田家のご長男の役割はお母さんだった。ご長男の子育て(弟妹育て)が終わった状況だった。「ババアうるせえ」と言われているような状況だったのだ。

ご長男の子育ては成功していた。だから下のご兄弟たちはうざがっていた。あの状況で(たとえば)妹さんは「お兄ちゃんどうしよう」といってるようでは子育て(弟妹育て)は失敗したといわざるを得ない。

前にも書いたと思うが「べき的思考」という。やるべきことをやるのは当たり前だ。アレやらなきゃコレやらなきゃということで長年やってきていると「〇〇したい」ということがなくなってしまう。こういう状況を「べき的思考に陥っている」という。

 

ご長男はたぶんべき的思考に陥っていた。考え方によってはウツ寸前だ。でもアドバイスしてもあまり意味がないと思った。こういう状況から抜け出すためには自分のために何をするようになれば良いのではある。だがたとえば「マンガを読むとかゲームをするとかなにかあるでしょう」というと「わかりました。じゃあ一日にマンガを5時間読んでゲームを4時間やるということでどうでしょう。それを週6。一日くらいボーっとしてても良いと思うんですよね」という返事が帰ってくる可能性がある。

冗談のようだがそうなってもおかしくないのだ。

 

ワタシはウツ寸前だと思ったがもしご長男がウツになったら下のご兄弟たちが面倒みるしかないだろう。さんざん世話になったはずなんだから。

 

ご長男が今どうされているか知らないのだがワタシも似たような状況だった。ワタシは両親が50才くらいの時に他界してそれからいろんなことでできなくなった。

最近そう思うようになったがいろんなことができなくなったら自分がなんとかなった。ワタシはあれくらいのガタガタがないと変われなかったのだ。

 

そして結局なんとかなっているのだ。やらなきゃいけないことが事実山のようにあるのにやっていない。それはやれなくなっているからだが。

 

考えてみたら今年は後厄だ。