世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

倒産寸前のテレビ局とギャンブル依存元通訳

大谷翔平のの元通訳がギャンブル依存だという話だ。依存adictionの話だがその前にテレビ局は普通に考えると倒産寸前だ。そうだとしか思えない。視聴率ウンウンということもあるが民放のCMだ。大手企業はCMを打っていない。ということは大手企業は広告を出す先としてテレビ以外を選んでいるということだろう。

そうだとすれば民放は倒産するしかない。そしておそらく代理店のような今の民放を支えているところはガンバッテいるのだろうが「もうテレビを支えなくても良い」ということになれば彼らもホッとするだろう。

だいたいいわゆる地上波は5個も6個もいらない。ワタシはそうだ。通信もあるわけだからNHKはそういうことも含めて「公共放送通信」としかやり直してもらう必要があるが。民放はどうしたものだろう。キー局が東京に一つ大阪に一つでも良いと思う。

新聞も取っているところは少ないし雑誌が売れているのかどうかも不明だ。そうなるといわゆるマスコミは全部厳しいということになるのだが・・・。、マスコミが全滅してもらうのも困る(ような気がする)。

 

それはともかく。依存adicitonだ。これを麻酔だと考えるのが一番わかりやすい。フロイトがいうトラウマ心理的外傷を抱えていて精神的な痛みを感じているひとが酒やギャンブルで精神的な痛みを紛らせているのだというふうに考えるのだ。

話の筋としてはこれが一番わかりやすい。

 

ワタシジシン依存adicitonはあるのだが対象はタバコだ。タバコなら良いわけではないが依存adiciotnの対象が酒だったらワタシは死んでいた。飲み方がおかしかったのだ。ただ酒は覚えないウチに辞めたからなんとか生きている。

 

そして過去いろんな治療法をやってきている。そういうことにはあまり意味はなかったと思っていたのだがそうは言ってもいろいろやってきているうちに徐々には効果が出ていたようだ。

 

過去の(子供の頃の)出来事を違う視点でみるであるとか。過去の実際のエピソードを映画館で観客として観ているようにする訓練。過去のエピソードを相対化するという意味だったのか。他にもいろいろやってきた。自助グループというものがあるのだがそういうところに参加していた。

 

そういうことに意味や価値があるとは思っていなかった。自助グループの仲間と不道徳なことを言っていたこともあった。親の悪口とか世間の良い思いをしている人たちに対しての悪口やいろいろ。昔からいうように「言わないひと」の方が危ない。いっている連中は意外と安全なものだ。

西尾和美のアファメーションのCDを聴いていた時期もある。

そういうことに効果があったんだと思うがどういうふうに効果があったのかは不明だ。

 

フロイト精神分析の対象を個人だとしたがこれを集団だとするひともいる。日本では岸田秀がそうだ。岸田は開国が日本人にとっての屈辱経験で日本人という集団全体が内的自我と外的自我に分裂しているんだと考えている。

そんな簡単なものではないが

内的自己=誇大妄想史観

外的自己=自虐史観

ということだ。

そして日本人という集団全体は「内的自我=誇大妄想史観」か「外的自我=自虐史観」でしか考えられないのだという話なのだ。

内的自己=誇大妄想史観=右

外的自己=自虐史観=左

ということでもある。

 

明治以降の日本で「内的自己=誇大妄想史観=右」が前に出ている(分裂しているのだから内的か外的自己のどちらかが前に出るしかない」時代には日本はうまくいってない。

「外的自己=自虐史観=左」の方がまだ現実を対応できているからだ。なにしろ外的自己なのだから。

 

そして「内的自己=誇大妄想史観=右」は誇大妄想的なわけだから幼稚なのだ。精神的に幼い。

 


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上はスティーブン・キング原作スタンリー・キューブリック監督の「シャイニング」。

この映画をそういう風にみる必要はないがジャック・ニコルソン演じる小説家のお父さんはアルコール依存症だ。そして酒乱。実際アルコール依存症というのはああいうものだ。作家のお父さんはイライラしているし不快な夢を見ている。ああいうことが酒を飲むと収まる。そういうふうにしているウチに依存が深まっていく。

 

依存adicitonについては論点になっていくプロセスが存在した。それがこの問題をややこしくしているのかもしれない。たぶん1970年代のアメリカでだ。酒に溺れている亭主や彼氏にひどい目にあっている女性を救い出す動きがあった。ボランティアがそういう女性たちをなんとか救い出してシャルターのような場所にかくまっていたのだがしばらく経つとそういう女性たちの多くが「あのひとはワタシがいないとダメだから」と言って亭主や彼氏の元に帰って行った。帰るとまた彼女たちはまたひどい目にあってしまうのに。そして調べてみると彼女たちは酒浸りの父親の元で育っていた。

そうすると彼女たちにもなんらかの病理があると考えざるを得ない。こういう女性たちをさして「共依存」と呼ぶようになった。

問題は彼女たちは酒を飲んでいないということだ。

 

こういう経緯がなければもっと違う話になっていたはずだが歴史にイフはないのだ。

 

ワタシはタバコは辞められていない。自助グループの友人たちにひどくマジメなひとが多かった。

酒は飲まない。タバコは吸わない。ギャンブルはしない。

そのあたりは聴いたことがないがワザと子供を作らなかったのではないかという友人もいた。

 

彼らはいろんなことで問題を起こしてはいない。ワタシにもそういうところがあったのだが「そういうふうになったら自分はヤバイ」思っていたんだと思う。子供がいたら虐待しかねないと思っていたような気がする。

 

 

 

司馬遼太郎はまったく読んでいない。なぜか読む気にならなかった。

そういえば余談だが最近「本が読めてる」と思った。ずっと本がよめなかったのだ。ほかもひどかった。でもずっとそうだったから「こんなものなのあかな」と思いこんでいたがそうではなかった。

 

ただ「坂の上の雲」というタイトルは示唆的だ。内的自己は誇大妄想的だ。だから限りなく上昇しようとする。上昇してどうするという観点はない。それが内的自己=誇大妄想史観の特徴だからだ。

 

明治以降の歴史と敗戦後の歴史はそっくりだ。明治以降では明治の元勲たちがチカラをもっていたうちはまだ安定していた。彼らが100%よかったとは思わない。だが彼らがチカラを失っていくと日本はおかしな方向に進んでいく。

敗戦後も同様だった。「三中大角福」という言い方があった。三木さん中曽根さん大平さん角栄さん福田さん。この世代は戦中派だ。

明治の元勲たちもいわば戦中派。戦中派がいなくなった頃から戦後日本もやはりおかしくなっている。

 

ただ救いはある。

歴史学者磯田道史がいっていたのだが幕末を代表する名君に鍋島のお殿様がいる。このお殿様は子供の頃参勤交代の途中で参勤交代が止まってしまう。お殿様はカゴのなかにいらした。まだ子供だったのだが。当時鍋島藩の財政が逼迫していて借金取りに止められたのだ。このお殿様のお父様は子供にいろいろ任せてしまう。この方が幕末を代表する名君のお一人になる。

 

若手の経済学者が年寄りは集団自決といって顰蹙をかった。あのひとのお父さんが疾走されているはずだ。そういう個人的経験は侮れない。ひろゆきwinny事件は死んでも忘れないはずだ。ワタシにもあの件この件という個人的経験がある。そういうことがあって連合という名前を聴くと腹が立つ。まして若い世代の怒りは尋常ではないのだ。

 

彼らが明確にそういうことをいうことは基本ない。それは彼らがいえなくくらいに

怒っているということだ。彼らが上っ面礼儀正し愛想は良いが内心は「駆逐してやる」でしかない。


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彼らが駆逐したいのはワタシタチだから気をつけなきゃ。

フケキセツとかいってる場合じゃないんだよ。「日本をダメにしておいてお前らまだ浮かれてんじゃないか」ということでしかないから。