厄年のもともとの意味は知らないがあのあたりは人生のターニングポイントのようだ。これはワタシがそうだったしワタシの友人にもそういうひとが多かったからそう思うだけだが。
厄年には悪いことが起きるという。実際ワタシも数えの42才と61才には悪いことが起きている。
だがこれは考え方だ。その当たりが人生のターニングポイントだとするとターニングポイント(曲がり角)をうまく曲がれるひともいるしガタガタあって曲がるひともいる。
もっというとガタガタくらいにないと曲がれない(変われない)ひともいるということだと思う。
病気も離職も人間関係の破綻も悪いことだ。だがたとえば病気になってしまうといくら本人がガンバロウと思ってもガンバレなくなるし周囲も対応せざるを得なくなる。本人は失意と激怒だとしても、それくらいのことがないと人生のターニングポイント(曲がり角)を曲がれない(変われない)こともあるのだ。
本人にはそんなことはいえないが介護離職したひとのなかに離職したほうがよかったひとがいる。
ワタシは数えの42才の時に離職している。その時は失意と激怒でしかなかった。というのは裁判にすれば勝てるくらいだったからだ。だが裁判に勝ったとしても具体的に何をしいということが浮かばなかった。
ワタシが離職した後リッチ・シェフレンの本を読んだ。そうしたらリッチ・シェフレンもある時に離職していた。彼は本気で裁判を起こすつもりだったのだが奥さんが辞めて欲しいといったので裁判にするのは辞めている。彼がその時何歳だったのかは知らないが。
ひとのことはよくわかるものだ。
テレビで亀田家のご長男に下のご兄弟たちが困っている様子が放送されているのを観た。
専門用語を使うと話がわかりづらくなるので専門用語は使わない。子供の頃から大人の役割をやってきたひとが大人になって問題を抱え込むことは以前から指摘されている。
亀田家のご長男の役割はお母さんだった。ご長男の子育て(弟妹育て)が終わった状況だった。「ババアうるせえ」と言われているような状況だったのだ。
ご長男の子育ては成功していた。だから下のご兄弟たちはうざがっていた。あの状況で(たとえば)妹さんは「お兄ちゃんどうしよう」といってるようでは子育て(弟妹育て)は失敗したといわざるを得ない。
前にも書いたと思うが「べき的思考」という。やるべきことをやるのは当たり前だ。アレやらなきゃコレやらなきゃということで長年やってきていると「〇〇したい」ということがなくなってしまう。こういう状況を「べき的思考に陥っている」という。
ご長男はたぶんべき的思考に陥っていた。考え方によってはウツ寸前だ。でもアドバイスしてもあまり意味がないと思った。こういう状況から抜け出すためには自分のために何をするようになれば良いのではある。だがたとえば「マンガを読むとかゲームをするとかなにかあるでしょう」というと「わかりました。じゃあ一日にマンガを5時間読んでゲームを4時間やるということでどうでしょう。それを週6。一日くらいボーっとしてても良いと思うんですよね」という返事が帰ってくる可能性がある。
冗談のようだがそうなってもおかしくないのだ。
ワタシはウツ寸前だと思ったがもしご長男がウツになったら下のご兄弟たちが面倒みるしかないだろう。さんざん世話になったはずなんだから。
ご長男が今どうされているか知らないのだがワタシも似たような状況だった。ワタシは両親が50才くらいの時に他界してそれからいろんなことでできなくなった。
最近そう思うようになったがいろんなことができなくなったら自分がなんとかなった。ワタシはあれくらいのガタガタがないと変われなかったのだ。
そして結局なんとかなっているのだ。やらなきゃいけないことが事実山のようにあるのにやっていない。それはやれなくなっているからだが。
考えてみたら今年は後厄だ。