フロイトからアドラーへ - センチメント感傷的な認知と良い未来への選択
シナリオライターたちが叩かれている。
ではシナリオライターたちの何が問題なのか?だ。
答えはセンチメント感傷的であることだ。
話を飛ばす。
フロイトは臨床家というより思想家だとみなされている。あるいは精神のシステム構造について考えたひとだと。
単純な話フロイトみたいなことをやっても病気(精神疾患)が治らないのだ。
ユングについては省略する。
というわけで(システム構造はともかく)「良い未来への選択」のアドラーなのではある。
センチメント感傷的になっていると認知がくるってしまう。
認知がくるってしまうと「良い未来への選択」をしようと思ってもできない。
なぜなら認知がくるってしまうと現状の適切な認識ができなくなってしまうから。
簡単な多くシナリオライターたちはオリジナル脚本をやりたいんじゃないの?原作つきだとやっぱりクリエーターとして厳しい部分があるはずだ。私はお人好しなので既にある作品をうまく利用した方が楽だと思うようなシナリオライターはいないと思いたい。
「マンガ原作反対」といったシナリオライターもいたようだがこれは「オリジナル脚本賛成」というべきだったはずだ。もしくは「ワタシはオリジナル脚本をやりたい」と。
「オリジナル脚本(シナリオライター本人のだ)がテレビや映画で実現しないのは問題だ」という主張なのであれば「それはそうかな」と多くのひとは思ったのだ。(もちろん私も)。
そしてそういう話の流れであれば「どうしてテレビドラマや映画でオリジナル脚本の作品が少ないのかな?」という話に流れて「そうか。原作つきのほうが外れた時のダメージ少ないからか」という話につながっていくのだ。(原作のファンが観るだろうからだが)
シナリオライターたちがセンチメント感傷的だから認知がくるってしまって「良い未来への選択」ができていないのだ。
テレビ司会者はどういうひとが行うのが適切なのか?とちょっと考えてみる。
どういうポジションのひとというべきだ。
答えはテレビ局の社長、もしくは番組プロデューサーだ。
飲食店で考えてみよう。(私は店舗系のサービス業をやってきたからこういう発想になる)
オーナーシャフの店がある。
テレビ局の社長や番組プロデューサーがMCを行うのはこういうカタチだ。
一方優秀なシェフなのだが雇われていることもある。
今のテレビMCたちはこっちのカタチだ。
もちろんこのカタチもあって良いのだがオーナーシェフの店があっても良い。
オーナーシェフに近いのはテレビ局の社長や番組プロデューサーがMCを行うカタチになる。
日本中でおきていることだが誰か責任者なのかわからない。
テレビドラマや映画を作る時にもやはりそうだ。
普通はプロデューサーに力があるはずなのだがそういうわけでもない。
話がまた飛ぶ。
今の日本は組織病に冒されている。
この主語はおかしいといえばおかしいのだが
1.組織は自己防衛をはかるもの
2,組織は自己増殖をはかるもの
なのだ。
それはどういう組織であってもそうだ。
これ(組織病)をなんとかする必要がある。
ただ前にも書いたのだがある種の人たちはポイントオブリターンを越えてしまったようだ。
そういう人やそういう人たちがいる組織がもう厳しいのかもしれない。
そうだとすると全然違うところから何かが出てくるはずだと思うのだ。