世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

マルクス主義と孤独

もう20年くらい前だ。知人にあった。その時に知人の娘さんとも会っている。彼女と話すことはなかったのだが。娘さんは当時10代だった。知人(男性)は娘さんにイヤなことを延々といっていた。娘さんは嫌がっていたし本当に怒っていた。だが知人はそういうこととはおかまいなしに娘さんに嫌なことを延々といっていた。冗談のつもりなのだ。

 

前にサンデーモーニングでのことだったのか澤地久枝がコメントしていた。隣でケント・ギルバートが「弱ったな」という顔をしていた。

その時澤地久枝がいっていたのはマルクス主義の文脈の発言だった。マルクス主義的といううか。あれは最強だといえば最強だともいえる。あそこにいくと誰ともコミュニケーションが取れなくなるからだ。

澤地久枝は極めて優秀なひとだ。これはイヤミでも皮肉でもなく事実そうだ。だが極めて優秀なひとであってもマルクス主義の文脈にはまってしまうことがある。マルクス主義的なというべきか。

 

これは政治の季節の後の世代でも同様だった。冗談をいう茶化すドギツイことをいうような人たちだ。

あの人たちの中にももちろん優秀なひとはいるのだ。だがやっぱり一緒だ。ああなると極めて優秀なひとであって誰ともコミュニケーションが取れなくなる。

ただ私は長年そういう人同士はコミュニケーションが取れているのだと信じていた。そういう人たちはたいてい華やかに過ごしているからだ。でもそうでもなかったのかもしれない。彼らはどうしようもなく孤独なのかもしれない。

そういう人たちが初対面なのに幼馴染か同窓生のように話しかけてくることともあったし初対面なのに彼彼女のムカシの話を1時間くらい聞かされれることもあったし初対面なのに彼彼女が今に至るまでの話を30分くらいしていたこともあったからだ。

もちろんそういうことをされると困るのしそういう人たちとは離れるしかないのだが、そういうことをしていしまうのは彼らがよっぽど孤独だからであるような気がする。

ということはマルクス主義の文脈で語るひとたち、マルクス主義的なひとたちもやっぱり孤独だったのか?