怒りの終わりと新たな思考
ここ10年怒り死にしそうなくらいに怒っている。だがそれももう少しで終わるようだ。これは事実の問題ではなく認識の問題だ。私は自己像セルフイメージが極めて低かった。ダメ人間だと思っていた。そういう自己像セルフイメージが上がっていた。そうすると過去のことも今のこともなにもかもおかしいし腹が立つことばかりになる。
前に消えない感情という話があった。怒りなら怒りが消えないのだ。感情が消えないから消えない感情だ。これをある認識があるだと考えてみると分かる話になる。
人それぞれだろうが「自分はダメ人間だ」という認識が規定値として(あるいは基本OSとして)存在しているひとは腹が立つのは当然だ。自分はダメ人間だという認識は腹が立って当然お認識だからだ。こういう場合は「自分はダメ人間だ」という認識が変わらないと怒りの感情は消えない。
最近「自分は明るいひとじゃないのかな」と思うようになってきた。ずっとそう思っていなかったのだ。
あるいは誰かやなにかに頼らないとやっていけないひと(もちろん人間は集団で生きる存在だから分業するのは当然なのだが)と思って(信じて)いたのだろうそうでもないとも。
ずっと「こういう連中とは身分(!)が違うからしょうがない」と思って(信じて)来たのだが「やっぱり身分(!)が違うわけではないか」とも。
日本のいろんな制度(?)が制度自体としてはそういう意味がないとしても「身分が違う」ということになっている。
たとえば「正規雇用(正社員)」と非正規職(非正規社員、パート、アルバイト)がそうだし「正規雇用」と「派遣社員」もそうだし「ホワイトカラー」と「ホワイトカラー以外」もそうだ。
賃金面でもそのほかのことに関してもあまりにも違いがある。
また多くのひとの責任感を利用することでしか維持できない制度でもある。これは具体的には多くのひとに低賃金やただ働き(ボランディアということになっていることもあるが意味はただ働きだ)を強いることでかろうじて維持できているという意味だ。
1980年代にニュース番組が人気になった。そのことに関してジャーナリストの田原総一朗が「ニュースと日々の暮らし(特にお金のこと)とがつながっていることにみんな気がついたからだ」と言っていた。そのとおりだと思う。
ニュースステーションの久米宏のモノマネをするひとが番組の最後のマーケット情報のマネをしていた。株価や円とドルの相場を説明していたのだ。
今の日本で何人かのSNSが話題になる。その中の一人がラサール石井だ。ラサール石井の発言は基本左翼的な立場の発言だ。現状私達(ここには当然私自身も入るのだが)左翼的な立場や文脈の発言か保守的(保守反動的)な立場や文脈の発言しかできない。
これは私たちの言説はある形態(?)を前提としていることを意味している。
だから違う形態(?)を作る必要があるのだ。
思考の形態というか枠組みが必要になっている。
右左という思想ではもういろんなことが捉えられない。また文系理系という枠組みも通用しなくなっている。
私がいっている思考の形態や枠組みというのはだいたいどういう学問分野が担当すべき仕事なのか?という話もあるのだ。
思考や思想の新しいOSが必要だという言い方は今の日本ではわかりやすいだろう。
話があっちこっちに飛ぶが今著名なひとが政治に口を出すと色がついてしまう。ついてしまっていたというべきだろう。それは日々の暮らしと政治は関係なかった時代があったからだ。そして日々の暮らしと政治(これは国会でやっているようなことという意味での政治だ)が深く関わりがある時代にもう日本は突入している。