世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

ハラスメントとポリコレ

すべて敬称略です。

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上はプレジデントウーマンの藤井セイラの記事だ。こういう端正な文章が私には書けない。そういうことには本当に恥じ入る。

私は1980年代の負け組だった。そのことが今から思うと重要だったらしい。ある時に周囲のひとと接していてもテレビやラジオに接していても「昔こういうことが流行ったよな」ということをずっとやっている人たちがずいぶんいることに気がついた。

たとえば

マジメな場面でふざけること

過剰なくらいに辛辣で毒々しいことをいうこと

こういうことだ。

ある職場で同世代の女性が同じ職場の女性に異常にガミガミいっていた。私は「80年代できる大人の女をこのひとはやっている」と思った。

マジメな場面でふざけることも過剰なくらいに辛辣だったり毒々しいことをいうことも昔は意味があった。また価値もあった。

男女雇用機会均等法が成立したのだがあの法律はザル法といえばザル法だ。だが当時(いわゆる)トランディドラマが流行っていた。トレンディドラマと男女雇用機会均等法とがセットになっていたことが(当時は)意味があったのだ。

その波の中で「女優も働く女性だから働く女性という意味ではOLと一緒だ」という論(?)もあった。これを論と言っていいものかどうか不明だが。このシンボルになったのが浅野ゆう子

 

ある言動のあるいはある発言の背景にはその時代状況がある。ある時代状況の中では意味や価値がある(あるいはあった)言動や発言であっても違う時代状況の中では意味や価値はない。それはある発言のなかのあるフレーズだけを問題にすると発言の本意が理解できなくなることと同じだ。

 

マジメな場面でふざけることに意味があったことの説明をしてみよう。たとえばある学問や芸術に接するときに(そういわれなかったとしても)かしこまるのが普通だったのだ。ニュートラルに接することができなかった。(当時の多くの大人や若者たちはだ)

たとえばクラッシック音楽はおクラッシック音楽だったのだ。芸術作品もそうだ。お芸術作品だった。

これは観念としてそうだったというよりも(そうしたくなくても)勝手に心も身体も萎縮してしまっていたというべきだろう。

過剰なくらいに辛辣で毒々しいことをいうことに関しても同様だった。特に女性でそういう言動を取るひとが多かったのだが、それは当時の社会状況時代状況の中ではやぱり心と身体が(そうしたいと本人が望まなくても)勝手に萎縮してしまうことが多々あったからだ。

東京ラブストーリー」で性愛について直接的な表現をする鈴木保奈美が演じる赤名リカも同様だ。当時の日本社会では女性が性愛について話すこと自体基本なかったことだった。そういう時に普通に性愛をついて語る女性像には大きな意味や価値があった。


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だが今はそういう社会状況時代状況ではない。


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上はNHKで放送しているイジメをノックアウトの一部だ。この番組をみて「なるほどなあ」と思った。学校でバラエティ番組みたいなことをやってるのだ。私が観た回では「クラスで天然だということになっているのがツライ」という話題を放送していた。

面白くなるのは「クラスで天然だということになっているのがツライ」と思っている子だ。「お前らひとのこと天然だと思って突っ込んでんじゃん。お前らがやってることサツッコミとはなんとかいう以前に痛いの。わかる?オレ痛いわけ」というふうな発想につながっていくからだ。こういうモノの見方ができるひとがおもしろいひとになるものだ。一頃「ひとを傷つけない笑い」といっていたひとは似たようなことを経験していたはずだ。

ある時期からの学校の多くがおそらくこういう状況になっている。もちろん大人社会もだ。こうなってしまうともうフザケルことが抑圧として機能しているといわざるを得ない。

そして「クラスで天然だと思われているのがツライ」というふうになってしまうのは実際(今の例でいうと)突っ込まれて痛いとしてもそういう場面で怒ると「シャレが効かないやつ」「空気が読めないヤツ」だという扱いにしかならないからだ。だから怒れない。

だからさっき書いたように「お前らひとのこと天然だと思って突っ込んでんじゃん。お前らがやってることさツッコミとはなんとかいう以前に痛いの。わかる?オレ痛いわけ」と内心思うだけでやり過ごすしかないということになってしまうしそういう発想を持つようなひとが面白いひとになるのは事実そうだ。

私自身ハラスメントやポリコレがうっとうしいとは事実思う。

だがすごく簡単な話ひとが嫌がることはやめればいい。だいたいそういうことはたいして面白くないものだ。