ずいぶん前だがマービンゲイの伝記が日本語に翻訳された。ああいうひとの伝記は難しい。何しろスターだ。でもそれはそうとういい伝記だった。その本が出たのでそういう音楽の専門家がユーミンの番組に出演していた。その時にユーミンが「マービンゲイとエルビルはEDだったと思う」と言っていた。マービンゲイとエルビスには男を感じないのだそうだ。
前に書いたがエルビスの体の動きの女性たちが反応した。そのことをエロティックな意味でとらえることが多い。でもそれはまったく違う。エルビスの体の動きは女性たちの身体を開放する動きだったから女性たちは熱狂したのだ。
マービンゲイには奇行があった。後輩のR&Bの男性歌手と自分の妻を浮気させて、その様子を隠れてみていたのだ。普通に考えれば奇行だ。だがマービンがEDだったとすれば納得できる話だ。
私は自覚はなかったのだがEDだった。それがどうやら治った。EDとはいえ勃起はしていたのだが。だからEDというのは単純なものではないのだ。
男性のクリエーターやパファーマーでEDやEDに近い状況になるひとは多い。
私がそうだと思っているのはある時期の谷村新司だ。谷村はある時期家に大量のポルノグラフティを置いていた。普通に考えればおかしな話だ。
これは経験上だが物理的に勃起するかどうか以前に自分のエロティックなスイッチが入るかどうかという問題がある。私はこれが長年入らなかった。私はある時期の谷村もそうであったような気がするのだ。
そういう風には大量のポルノグラフティを所有するひとは私同様性的なスイッチが入りづらくなってひとことがある。そういうこともEDなのだ。
カズレーサーみたいにそういうことを公表しているひともいる。
ただEDになったひとで有能なひとが多いのもまた事実。
EDは心理的なものだ。そしてこれはエデイプスコンプレックスと重ねて感がるのが筋だ。エデイプスコンプレックスをマザコンのようにとらえるひとがいるがこれは間違いだ。父親が男で息子も男になってしまうと父親と息子が争うことになる。これがエディプスコンプレックを考える上でのポイントになる。
日本神話でいうとヤマトタケルのエピソードにそういうニュアンスがある。これはあうまでも物語としてだ。ヤマトタケルも父親とライバル関係になる。父親とライバル関係になるというのがエディプスコンプレックスを考える上で重要なポイントだ。
吉川栄治の宮本武蔵にもそういうモノを感じる。井上雄彦のバカボンドの原作だ。
実際フロイトは去勢という概念を使っていたはずだ。EDになってしまうと意味は去勢と同じだ。
だがしつこいがEDに陥ったひとには優秀なひとが多いのも事実だ。
私はあのひともそうだったのではないかと思っている。ウォルトディズニーだ。ある時に心理学者の富田隆の講演を聞いた。ウォルトディズニーも著名なひとでもあるしいい伝記はあまりないのだが。