世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

統合失調症回復の記録 33

 

この本に書いてあったのかどうかよく覚えていない。孔子の言葉だそうだ。

友達にするのに一番良いひとは中庸なひと。その次が狂狷(きょうけん)なひと。

この狂狷(きょうけん)だ。狂は躁で狷はウツだとも言える。

 

数日前に夜寝ていて「今普通に見ている」と思った。そのときにはマブタを閉じていたから見るも見なもないのだが「今普通に見ている」と思ったのだ。具体的に黒目が変わっていたもしれない。

私がハッキリ統合失調症になったときに「あることを見なきゃ」「あることを感じなきゃ」とは思うのだがどうしてもそれができなくなっていたのだ。それができなくなって妄想(といっても現実ではないとは一応わかっている)が生まれていた。そしてそれ以来妄想(といっても現実ではないことは一応わかっている)が消えなくなっていた。

そしてまだ妄想は残ってはいる。

数日前に「今普通に見ている」と思ったときにどうやら昔私が「見なきゃ」「感じなきゃ」と思っていたsomethingを「見て」「感じて」いたらしい。

孔子の論語 子路第十三の二十一 狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり | ちょんまげ英語日誌

上は今見つけたブログだ。とてもいい内容だ。

ただ統合失調症はフィクションを現実だと思う(勘違いする)病気だ。ではあるがほとんどの統合失調症の患者はフィクションを現実だと100%思っている(勘違いしている)わけではない。このことは指摘しておく。

ただ現実があまりに過酷な場合にフィクションを現実だと思い(勘違いし)現実をフィクションだと思った(勘違いした)方が楽なのは事実だ。そういうことから考えると統合失調症に陥ることをニュートラルな防御反応が働いていると捉えてもそんなにはおかしくないのだ。

 

こっちが読みやすいのでおすすめする。フランクルの「夜と霧」だ。フランクルユダヤ人の心理学者で強制収容所におくられれる。だが心理学者としてできるだけ冷静に強制収容所の出来事を書いている。

ある日突然強制収容所から開放されるのだが(それはナチスが戦争に負けたからだ)その時フランクル離人症に陥ってる。喜びを感じられないのだが。だがおそらく痛み苦しみもあまり感じなくなっていたはずだ。離人症ならそうなるはずだ。あまりに過酷な環境に居る時に感覚が鈍麻することもニュートラルな防御反応が働いているとも考えられるのだ。

私は数回急性期に陥っている。その時のことは今から考えても妄想だったのか夢だったのか現実だったのか判然としない。

これもあまりにショックなことが起きた時にはそうなった方が安全だと考えることができるのだ。

こういうふうに考えてみるとメンタルを病むことがイコール病気だとは必ずしもいえないということになる。