世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

統合失調症回復の記録 3.1

吉本隆明はずいぶんヒントになって。「共同幻想論」は特にだ。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

 

吉本は日本神話を取り上げている。日本神話が資料として手に入りやすいという理由でだからだ。

余談だが日本の探査機はやぶさ2が小惑星りゅうぐうから持ち帰ったサンプルによる研究で地球の生命は宇宙から来たという説が浮上している。科学的事実としてどうであるかとは違う話で日本の神話は北方系と南方系の二つがあって北方系の神話では生命は空から来たと考え、南方系の神話で生命は海から来たと考えるのだそうだ。科学的事実とは別にこの生命の起源の話は神話の通りだ。小惑星の名前は「りゅうぐう」なのだ。

吉本は芥川龍之介の自殺について言及していた。吉本は芥川は都市のある地域に帰るべきひとだったのにそれを拒絶したというのだ。また三島由紀夫は世界的な作家になることよりも平凡な幸せを手にしたほうがよかったのかもしれないとも考えていた。

それはともかく芥川だ。私は夢にある地域をよく見ていた。夢の内容には意味がない。現実との関係が問題なのだ。ある時に「あれは自分が生まれ育った地域のことだ」と気がついた。普通に考えればそうでしかないのに私はずっとそのことに気が付かなかったのだ。どこかの商店街を歩いている夢や車である地域を通るのだがやっぱ商店街があってというような夢をずいぶん見ていたのだ。明らかに自分が生まれ育った地域のことだったのに私は長年そのことに気が付かなかったのだ。

ただ私はこの議論に岸田秀の議論を援用している。岸田秀も私が影響を受けたひとの一人だ。学問の世界にもトレンドがある。トレンドからあまりに離れた学説は無視されたり黙殺されることもある。そしてそういうことで発言権を失うこともあるのだ。フロイト精神分析の対象を個人とした。だが精神分析の対象を集団とする学者は早くからいた。このことは養老孟司の本で知った。日本では岸田秀がこの議論をしている。

有名な話だがヒドイ屈辱経験をしたひとがその屈辱経験を受け入れられないときに精神が外的自己と内的自己に分離してしまうという話だ。よくいわれている例は使わないでここではイジメを例に考える。ひどくいじめられてその屈辱が受け入れられないでいる時に外的自己はその現実に適応する。学校などというところはヒドク閉鎖的なところだ。そういうところにいるとそういう世界がすべてであるように思って(考えて感じて)しまう。実際は学校以外の場所もあるのだが。外的自己は現実に適応はしているのだがどこかミジメったらしい。内的自己は自分は天才だくらいに思っている。岸田は黒船が来て開国したことが日本と日本人にとってはあまりに屈辱的でその屈辱を受け入れられていないと考えた。だから日本人という集団は(そして日本人一人ひとりも)外的自己と内的自己に分離している。

この説が重要なのは日本の敗戦の時の日本人の変化についての説明になりうる今のところ唯一の説だからだ。日本全体が昨日まで「鬼畜米英」「軍国主義」といっていたのに一夜にして「アメリカイギリスは良い国」「民主主義」にスイッチしたのだ。普通はそんな真逆には普通変われないはずだ。だが日本と日本人は一夜にして見事にスイッチした。この説明になりうる説なのだ。日本も日本人一人ひとりも外的自己と内的自己は両方もっている。あまりの屈辱経験を経て外的自己と内的自己に分離してしまっているから。そもそも外的自己と内的自己の両方もっているのだから(それはあまりの屈辱経験を経て分離してしまったから)外的自己から内的自己へも内的自己から外的自己へもスイッチは可能だということになるのだ。

私は今分離と書いた。でもこれは本来分裂だ。あるいは自我の統合が失調しているとっ考えるべきだ。私の知人に女性にヒドい男たちがいる。そういう人たちは母親に屈辱を与えられているのだ。そういう男がいわゆるマッチョな男だ。

この説明でいうと外的自己は自虐史観になる。内的自己は誇大妄想的なので「日本はすごいんだ」というある時期のテレビ番組になる。この説明にもなりうる説だ。

私は今だに「高度経済成長から見放されたような」というフレーズに心惹かれる。私にもこのフレーズはひどく魅力的なフレーズだ。私には高度経済成長は生まれ育った地域を破壊したモノでもあるのだ。もちろん高度経済成長のおかげで豊かになった。それは間違いない事実なのだが。東京や大阪のひとでも「東京オリンピックの前の東京」や「大阪万博の前の大阪」に深い郷愁を感じるひとがいるはずだ。そういうことに近いことだ。

角川書店角川映画の影響だが横溝正史がある大ブームになる。市川崑の最初の金田一幸助シリーズは「犬神家の一族」で1976年だ。この頃は高度経済成長による日本の都市化は完成に近い。私の世代(1960年代生まれ)は高度経済成長に対して両面的な考えと感想ももっている。実際豊かにも便利にもなったのだ。だがその一方で失ったものも多かった。そして高度経済成長は屈辱経験でもあったのだ。

スタイリッシュな映像の市川崑があんなドロドロとして話を撮るのも本来不思議なことだ。ここも同じだ。オシャレでスタイリッシュなところが外的自己だとするとドロドロとした内的自己ももっているのだ。自我が分裂した状況だからだ。

いろいろな名探偵がいるが金田一耕助は独特の意味がある(意味を持つ)名探偵だ。ある種の救済を行う名探偵なのだ。犯人は本人たちにはどうしようもない理由で犯行を行っている。ほとんどの場合がそうだ。金田一耕助はそういう犯人もそういう犯行が行われた地域社会も救済して祝福する役割をもっている。ケガレをはらう神官のような役割をもっている。祝福を与える精霊といっても良い。だからあんなにドロドロとした話なのに金田一耕助シリーズはどこか牧歌的だ。金田一耕助は結局アメリカに行ったはずだ。そのことも金田一耕助という名探偵を考える上ではポイントになる。

それは日本のミステリーがその後松本清張の社会派ミステリーになっていたことともつながってくる。松本清張のミステリーの犯人たちは同じようなことでつまずく。つまずく原因の代表は女性だ。考えようによっては松本清張のミステリーはすべて日本人が排除した存在によって復讐される話だ。「砂の器」は犯人はドロドロとしか過去を否定して成功している。そのドロドロとしか過去に復讐される話だともいえる。女性がドロドロしているという意味ではない。排除した存在という意味では女性とドロドロとした過去は同じだという意味だ。

そして今の日本も日本が排除した存在から復讐されている。「マイホーム」や「ニュータウン」は排除された存在なのだ。また私が長年やってきたサービス業もそうだ。あるいは貧困も。ある種の労働者や労働も同様だ。今の日本はそういう存在に復讐されている。そうだとすると横溝正史のミステリーの金田一耕助のように救済と祝福を与える存在が必要になるのだが。それはフィクションの登場人物でも良いのだが。鬼滅の刃や呪術回線のキャラクターはそういう意味を持っているかもしれない。スパイファミリーのアーニャも。ADOや藤井風もだ。ADOは「うっせえわ」だしワンピースの映画の歌を歌っている。藤井風は和解や祭りを歌っている。