世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

ワイロ文化が浸透する国々の社会的背景とは

共産主義国家、旧共産主義国家の統計がなぜ当てにならないのか、なぜそういう国々には汚職やワイロが普通なのかについて考えてみよう。
共産主義国家で実務としてどういうことをしたのかを考えてみれば分かる。
たとえば日本でいうと日本のトップも(政府の高官も日本のリーディングカンパニーのトップたちもキャリアア官僚も)芸人もアイドルも詩人もコンビニのバイトも全員公務員にしたんだと考えてほしい。そしてここはわかりやすくするためにこう考える。日本中全員月給20万円。そして完全雇用。失業率は0。こういうふうにしたと考えてほしい。
今の日本やアメリカのように格差が激しい国ではあまりの怒りのあまりこういうふうにしてしまうこともありえなくないのだ。
しばらくはこういうことでまわるのかもしれない。
だがしばらく時間が経過すると様相が変わってくる。
たとえば夕ごはんを外で食べるとしよう。一般人は夕ごはんを1000円で食べる。外で食べるメニューはカレーなのかもしれないし焼き魚定食なのかもしれないし麻婆豆腐定食なのかもしれない。
国のトップたちもやっぱり1000円で夕ごはんを食べる。だが国とトップたちは銀座で食べれば数万円の豪華ディナーを1000円で夕ごはんを食べるのだ。メニューは高級割烹かもしれないし高級寿司かもしれないし高級フレンチかもしれない。ワインをつけると数万円でも効かないことになるが。
先に書いたように国のトップも一般人も月給が同じ20万円だとすると、こういうカタチで差をつけることになる。
そしてワイロだ。ここでは学校で考えてみる。校長も教育長も新人教師も図書館の司書も全員月給20万円だ。そしてあなたはそういう学校に子供を通わせるとしよう。するとなんか校長や教育長に申し訳ない気持ちになる。校長も教育長も新人教師も図書館の司書も月給20万なのだ。すると「申し訳ないな」と思うから校長や教育長に包むことになる。
この包むというのは具体的にはワイロになるのだ。
そして校長は自分だけで「包んでもらったお金」を使うのは申し訳ないから学校の教師や他の職員で分けることになる。そして包んでもらったお金をうまくわかることも校長の才覚のウチになっていく。
ここでは校長にしている。私は学校に悪意はないのだが、これは仮にだ。だがあるところのトップやある役職のひとは同じことをするし「包んでもらったお金」をうまく分けることもトップやある役職にあるひとにはどうしても必要な才覚になっていくのだ。
こういうふうになってしまうとワイロは文化なのだ。

ここではひどく雑に考えている。だけどこういうふうにひどく雑に考えてみるとわかるのだ。

 

いくら今の日本やアメリカの現実に怒っていても、こういうふうな形態にしていはダメだよ。