うっせえわが大ヒットした。
時代というものはそういうである流れがあって違う流れが出てくる。権利がわからないのでうっせえわの歌詞のコピペはしない。だがこの歌詞にひどく共感した。私は還暦なのだ。還暦のオヤジが「そうそう」と思うのだから世の中のたいていのひとが実はこう思っていたのだ。
今の世の中「半笑い」の連中がうようよいる。彼らを見ていて余裕があるのかなと長年思っていたが単ににやけていただけだった。
養老孟司の「バカの壁」の大ヒットした。バカの壁の中だったのか東大の学生に二つの何かについて「どう違う」と養老先生が質問したエピソードがでてくる。学生は「こっとが大きいです」と答えたのだ。養老先生は激怒。だが他の東大の先生は「そういう学生いますよ」という対応だった。こういうときに怒るのが長年バカみたいだったのだ。
でもその学生はバカだ。バカだとしかいえない。そういう学生が東大にいることには怒るのは当然だ。それを「そういう学生いますよ」と半笑いで言っている方が本来おかしい。
でもある時代には半笑いのほうが勝っていたのだ。これは勝ち負けの話だ。ある時代には半笑いのほうが勝っていた。
私は新人類のなれの果てだと軽蔑し嫌悪している宗教学者の島田裕巳も一貫して半笑いだ。
性について語っている岩下志麻子と西原理恵子もずっと半笑いだ。
漫画家のみうらじゅんもずっと半笑い。
みうらじゅんの今の外見がみうらに当たったバチだ。そういうことについて仏教うんうんといっているみうらはどう考えているのか知りたいが。
そういえば西原は漫画である年齢の男が攻撃的な音楽をガンガンかけて部屋にこもる時期を「ヤザワ期」とやっぱり半笑いで描いていた。
で?だから何?そういうことは事実あるがそういうことを「ヤザワ期」といったから何?どうだっていうの?
とにかく全員「うっせえわ」なんだよ。
普通に話してほしいだけだ。変な恰好されても全然面白くないし変な言い方されてもつまらないだけだ。ただただ普通にしてほしいだけ。
そういえばみうらじゅんが松本清張に関する番組に出ていて唐突に巨人の星の話をしていたことがあった。司会のアナウンサーがげんなりしていたがみうらはまったく気がついていなかった。