世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

マルクスと身体革命  農業革命、産業革命、知識革命

今の日本は産業革命後のイギリスに似ている。というより同じだと思う。
マルクスが言っていることは正直よくわからない。というよりそもそもマルクスはほとんど読んでいない。

漫画家の山田怜司がニコ動でヤングサンデーというチャンネルをやっている。そこで定期的に読書会を行っているのだが。
あるマンガをみんなで読んだりある映画をみんなで見ている。そういう読書会だ。
その読書会でワタオニをみんなで観るということがあった。
ワタオニというのは渡る世間は鬼ばかりというTBSのドラマだ。
ワタシはワタオニは見ていない。ワタシの世代はたいてい見ていないはずだ。
ワタオニでは2つの家が大きな舞台になる。
一方の家は大企業の重役を勤めている男性の家(岡倉家)だ。もう一方の家は町中華の家(幸楽)。

ブルジョアジープロレタリアートという。
フルジョアジーという言葉を金持ちのように使うことも多い。一方プロレタリアートは労働者だが貧しいひとのように使うことも多い。
だがこのドラマでのブルジョアジーは幸楽でプロレタリアートは岡倉家だ。
どうやらブルジョアジーというのはもともとは農地を所有しているひとのことだったようだ。するとその農地で働いてるひとがプロレタリアートになる。
そして産業革命だ。
産業革命が起きると工場を所有しているひとがブルジョアジーになる。そして工場で働くひとはプロレタリアートだ。
農業でいうとたとえその農地が狭くても自分の(自分が所有している)農地で農業を行うひとはブルジョアジーなのだ。こういう人たちはプチブル(小ブルジョアジー)という。
ブルジョアジープロレタリアートとの違いは金持ちか貧しいかという違いではない。
農地や店舗や工場を持っているかどうかだ。
農地や店舗や工場を持っているのがブルジョアジーでそこで働くひとがプロレタリアートなのだ。

そういう考えでいえばたとえ大企業の重役でも会社を所有していなければプロレタリアートだ。そして幸楽は店を持っているのだからブルジョアジーなのだ。

疎外という。ワタシは疎外という言葉が長年わかっていなかった。
疎外というのはどうやら良い状況良い環境にいるひとが陥るものらしい。
実際今の日本でもずっと良い環境にいた人たちがなにやら感傷的だ。ワタシはずっと不遇だから「散々良い思いをしてきたのに」と思っていた。
日本のポップミュージックにこういうこと(疎外)を描いた歌がある。
ユニコーンの「働く男」だ。
働く男の主人公は親のコネがある(おそらく)大企業に勤めている。有名な企業なのだろうし給与面でも社会保証の面でも良いのだろう。彼には彼女がいる。だが彼女も仕事をしている。そして彼女も忙しい。
だからそういう極めて良い環境にいるのに彼は結局なぜか一人きりだ。そして(おそらく良い部屋なのだろうが)いい部屋に帰っても一人で風呂に入って寝るだけなのだ。
疎外というのはこういう状況のことを指し示しているはずだ。

実際ワタオニでも大企業の重役を勤めた男性が板前になるエピソードがある。家族は猛反対だ。だが彼は板前の修行をして実際板前になるし何やらそういう暮らしが楽しいようだ。

一方ワタシだ。もうずいぶん前になるが同世代の友人と話していて「もし病気(メンタルを病んでいたのだが)してなかったら死んでたかもしれない」と言った。すると彼は「それはしょうがないんです。ワタシタチは洗脳されてるから。国家ぐるみの洗脳ですから」と言った。ワタシは「誰も喜ばない名誉の戦死するところでした」と言った。
昔のイギリス(というのは産業革命後のイギリスだ)で工場での労働があまりに過酷で亡くなる人たちがいた。
こういうことに関して彼らはずっと無理やり働かされていたんだと信じていた。
だが最近「違うかも」と思うようになった。
それは自分自身のことを考えてみたからだ。
ワタシは長年無理やり働かされていたわけでもないのだ。自主的に働いていた。そういうことを称して同世代の友人は「洗脳されている」といっているのだ。
こういうことを指し示す言葉はないと思う。こういうことは想定されていなかったはずだ。(それはワタシが自分自身がそういう状況に陥っているのにそういうことに気がつかなかったくらいなのだからしょうがないのかもしれない)


確かに農地や工場や商店(店舗)をもっていれば有利だ。少なくとも今の日本ではそうだ。
こういう所有と有利という観点でちょっと考えてみたい。

ある時期に世界で知識革命が起きている。(ドラッカーはいわゆる古代文明の発生を農業革命と読んでいる。知識革命という言葉はこの考えに準じている)
知識革命が起きたのはもっと後だったのかとも思っていたのだが第二次世界大戦の時だったのかもしれない。
知識革命の後の世界では知識を持っているひとが有利だ。あるいは有利だった。過去において農地や工場や商店(店舗)を持っているのが有利だったということと同じ意味で有利だ。
ワタオニの話に戻るがそういうことがあってもともとの言葉の使い方ではプロレタリアート(労働者)であるはずの岡倉家が高い社会的ステータスを持っている。そしてもともとの言葉の使い方ではブルジョアジーであるはずの幸楽(町中華の家)は社会的ステータスが低くなっているはずだ。
こういう現象は知識革命が起きた結果知識を持っているひとが有利な社会になったことを意味しているはずだ。


そして今次の革命が起きている。この革命の意味も名称も不明だ。だがここではその革命を(仮に)身体革命と読んでみる。

ワタシは長々メンタルを病んでいるがこの意味がリミッターを振り切ってしまったので部分的に感度を落として身体を動かなくしたんだと考えてみる。もちろん「それを誰がやったのか」という話にはなるのだが。
ある時に日本で学級崩壊が起きている。もちろん学級崩壊にもいろいろな学級崩壊があるはずだ。
それはそうなのだが。学級崩壊が起きる前に学校で体育座り(三角座り)という座り方が一般化している。
これが学生生徒の身体を動かさなくさせたものだ。
そして学級崩壊の意味だ。(もちろんすべての学級崩壊がこうだとはいわない)
生徒学生たちにもわからなかったのだが身体をあまりに動かさないのが辛かった。だから辛抱しきれずに身体を動かしてしまった。あるいは本人たちは動かしたくはなかったのだが身体が動いてしまった。
学級崩壊にこういう意味があったのかもしれない。
これはずいぶん後になってそう思ったのだが。

昔の友達にIT系のエンジニアがいた。彼が「やっぱりデスクワークが楽かな」と言っていたのだ。
ワタシはサービス業だったということがあるのだろう。
デスクワークは身体がシンドイとしか思えなかったのだが彼にそういうことを言ってもと思っていわなかった。
デスクワークだと一日何時間もずっと同じ姿勢を取り続けるのだ。
あれはシンドイとしかワタシには思えないのだが本人は楽だと言っていたのだ。
さっきの話みたいにいうと彼も(ワタシ同様)洗脳されている。
あんなシンドイことをやっていて楽だと思っているのだから。

ワタシは実際知識革命の後の革命が今起きているのだと考えていて、それを身体革命と(仮に)呼んでいる。
ワタシはいままで「これを持っていれば有利だ」という観点で考えてきた。
農地や工場や店舗を持っていれば有利だった。そして知識を持っていることもやはり有利だったのだ。
だから身体革命が起きると良い身体を持っていることが有利な時代に入るということになるのだが、こう断言していいものかどうかはよくわからない。
ただ良い味覚や良い聴覚を持っているひとも(今はもう)有利な時代になっていると思う。
ワタシは「歌くらいうまかったって」という気持ちもあるのだが「歌がうまい」というひともやはり有利な時代に入っているとも思うのだ。
そうするとやっぱり身体革命がおきているのかもしれない。