世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

未来への転換:東アジアの動向と歴史的価値観

今世界史上、日本史上の大転換がおきている。大転換というのはカール・ポランニーの著作のタイトルだ。

北米にひとが押し寄せているしヨーロッパにもひとが押し寄せている。
この意味だ。こういうことをワタシはゲルマン民族の大移動のようなことだと捉えている。
だからトランプさんがどうのというレベルの話ではないという見方なのだ。
そしてこういうことが東アジアでおきないとは言い切れないとも思っていた。
そうは言ってもそういうことはないようにも思っていたのだがこれがありそうになっている。

右翼と左翼という。
もともとは右翼は保守派で穏健改革派だ。そして左翼はラディカルな改革派。
アメリカがわかりやすい。トランプさんとサンダースさんはともに極左だ。
ここでいう極左というのはマルクス主義とは無関係だ。ラディカルな改革派が極左。トランプさんもサンダースさんもラディカルな改革派だから二人とも極左だ。
そしてサンダースさんの支持者であろう人たちがオキュパイウィールストリート(ウォール街選挙)という行動に出た。トランプさんの支持者であろう人たちはワシントンDCで暴れた。ああいうことが極左の言動だ。ラディカルな改革派(左翼)の言動はどうしてもああいう風になってしまう。

古舘伊知郎報道ステーションをやっている時に民主党(当時の政権与党)の有力者からガンガン電話がかかってきていたといっている。ただ古舘伊知郎がいっていることには続きがあってその後の自民党自民党がその後政権に返り咲いたのだ)の時はもっと方法論が洗練されていたのだ。
だが1980年代にはマスコミ(悪口ばかりいわれているが)は第4権力になっていた。だから日本もアメリカも4権分立なのだ。
実際ニュースステーションサンデープロジェクトで首相が決まったことがあったのだ。小泉さんはそうだった。
小泉さんとトランプさんはそういうところもにている。
トランプさんが大統領になったのはマスコミのチカラがあってのことだ。
さっきの右翼左翼という言い方だと小泉さんは左翼、どころか極左だ。
そして橋下徹もやはり左翼どころかやはり極左だ。
極左とマスコミとはどうやら相性が良いらしい。
ワタシがここで左翼あるいは極左といっているのは改革に対する姿勢態度がラディカルかどうかという話でマルクス主義とは無関係だ。

話を戻す。本来マスコミという第4権力も含めた制度設計が必要なのだがワタシも含めてこれが出来ていない。

 

そして保守だ。
世界中で保守がヒステリックになっている。だから言動が左翼に似ている。だがヒステリックになっている保守とラディカルな改革派(つまり左翼)とは当然違う。
まずなぜ保守がヒステリックになっているのかだ。
保守は譲歩する存在だからだ。
「女性たちがやっぱり可哀想だ」と思って譲歩し「マイノリティにも可哀想なことはやめたほうが良い」と思って譲歩をしてきた。
そして「これがいったいいつまで譲歩するんだ」と思っている。だからヒステリックになっているのだ。
ただ日本では保守が2種類いる。
一つの保守は今書いたような保守。
もう一つの保守は共産党のような保守。この立場の保守は「戦後体制護持派」の保守なのだ。
保守は譲歩する立場だ。
そして「戦後体制護持派」もやはり一貫して譲歩してきた。
だからやはりこういう保守もどこかヒステリックだ。


政治的な立場でいうと日本には新左翼という政治的な立場がある。
ここは意外と大きい。
久米宏新左翼的だったし今でいうとラサール石井の立場もやはり新左翼的だ。
この説明な面倒なので飛ばす。

日本史でいうと今の日本はやはり江戸から明治へくらいの転換期だ。
フランス革命もそうだったし明治維新でも内覧があった。武力による戦いがあったのだ。
だがもし今回のこの変革を内乱(武力による戦い)なしに成立させることができるのならそれはとても素晴らしいことだ。


ワタシは挫折したとはいえ哲学科中退だ。西洋哲学科だったのだが。
中退しているのでワタシは学問の訓練を受けていないのだ。
一頃「哲学は終わった」とずいぶんいわれていたしデカルト先生の悪口もずいぶんあった。
こうなったのは哲学が重視する理性の合理性がいかに残虐なモノであるかを20世紀の歴史が証明してしまったからだ。
事実としてこれはそうだ。そうだとしかいえないのだ。
だが「じゃあ理性も合理性も無意味で無価値なのか」という話になってしまう。
理性も合理性も無価値なのであればワタシたちは何を重視して行けばいいのかという話なのだ。
ここに関する明確な答えをワタシはいうことができない。
だがある答えは「会話を続ける」だしある答えは「身体重視」だ。

そしてここにAIという存在が出てくる。
たとえばAIは現代美術が分かるのかという話なのだ。
一般の人間には現代美術はわからないのが普通だ。
だがもしAIに現代美術がわかるのならそこにはある論理や合理性があるはずなのだ。
もっとわかりやすい例だと大学入試がある。
AIに大学入試の問題が解けるのならそこにある論理や合理性があるはずだ。

柔道の創始者嘉納治五郎だ。
嘉納治五郎柔術のワザを分析して解析した。
その結果生まれたのが柔道なのだ。
ワタシがさっきからいっている現代美術や大学入試にある論理や合理性があるのというのは嘉納治五郎がやったように柔術のワザを分析して解析することは可能なのかという意味だ。

日本では学校給食を児童生徒が係になって行う。掃除も児童生徒が行う。こういうことに教育の効果も意味もあると考えているからそうしている。もちろん子供の頃学校給食の係になって失敗したひとも多いだろうが。
こういうことに何らかのヒントがあると思うのだがワタシには明確にこの件についていうことができない。

世界の覇権はある時にヨーロッパからアメリカに移動した。今おそらく世界の覇権がまた動いている。
アメリカから東アジアに移動するのだろうが、東アジアが(日本も含めて)極めて流動的なのだ。
そしてとてもざっくりいえば20世紀はアメリカの時代だった。
そしてワタシたちは21世紀に暮らしているのだがまだ20世紀の価値観で暮らしている。
問題は価値観だ。
まだ21世紀の価値観はないのだ。
これはこれから作っていくことになる(なぜならまだないのだから)。
だがゼロから作るわけではない。
過去には戻れないし戻らない。だがヒントは過去にある。というより過去にしかヒントはない。
そういう意味で歴史はとても重要だ。
考えかたによっては螺旋階段のようなものかもしれない。
違う位相だが同じような場所はあるのだろう。
このあたりが今を生きるワタシたちには重要になる。