世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

存続

男と女の話だ。

人類という種に取って重要なことは人類という種を存続されることだ。

これが優先順位1位。

気候は関係が深いと思う。暖かい所の成人男性はヒマだからギャンブルをやって遊んでいる。はり切るのは祭の時くらい。

このヒマだ。ヒマはスコラ。スコラは学問だ。

そして祭はマツリゴトで政治だ。

だから学問や政治は人類という種にとっての優先順位は種の存続よりも下だ。

まずこのことを理解する必要がある。

 

私は挫折したとはいえ西洋哲学科だった。一頃「哲学は終わった」という声があった。またデカルトもずいぶん悪口を言われていた。これは20世紀の歴史が哲学が重視する理性や合理性がいかに残虐なものであるかを証明してしまったからだ。

だが私達にはなんらかの知性が必要だ。ここで重視されたのが身体知。身体知をここでは積み上げ不可能な種類の知性だと考える。

ということは一方には積み上げ可能な知性も存在する。

過去の学問の業績を勉強して、その上でまた考えることが可能な領域が積み上げ可能な知性だ。それをここでは頭脳と呼ぶことにする。

「自分は巨人の肩に乗っただけだ」という学者がいる。それも極めて優秀な学者がそういうのだ。これは過去の学問の業績の上に自分はちょっと足しただけだという意味だ。私はこういう学問領域の知性を頭脳知と呼んでいる。

身体知の代表は格闘技だ。もし格闘技が積み上げ可能であれば今の格闘技の選手は昔の格闘技の選手よりも強いはずだ。

哲学もそういう領域だ。

ただこれは基本祭=マツリゴト=政治かヒマ=スコラ=学問の話だ。

 

しつこいが種の存続の方が人類に負っての優先順位は上なのだ。

 

女性の服がエロティックな意味しかなくなってしまうのが事実だ。それは人類という種の存在のために必要なことだからだ。だからSFみたいな話にはなるが人類という種の存続のための今までとは違う方法が見つかればコレは変わることになる。

 

それはともかく日本の女性学者たちは認知が歪んでいる。スカート云々と彼女たちはいうのだ。

日本の男は普通にスカートを履くのにだ。和服でハカマを合わせな着かたを着流しというが。和服でハカマを合わせなければスカートだ。ワンピースみたいなものなのだ。

スカートでしかないものをみてスカートだと認知ができないのだから認知が歪んでいると言わざるを得ない。

 

1980年代に女性の社会進出という話があった。私は当時そういうことがあまり好きではなかった。それは彼女たちは「スーツを着て働くこと」を目指していたからだ。

農業はダメなのか?商売ではダメなのか?と思っていたのだ。

落合陽一がシンギュラリティが2025年にやってkるといっている。シンギュラリティは普通はAIが人間の能力を超えるとポイントだと考える。だがシンギュラリティの意味はホワイトカラーがなくなるということだ。

世界中からスーツを着たひとがひとり残らずいなくなると思って欲しい。来年そういうことが起きるのだ。

 

もうすでに必要がないポジションが大量に存在している。そういうポジションの人たちのしごtは何にもしないことだ。彼らのポジションは必要がないので彼らが何かをすると邪魔で迷惑になってしまうからだ。でも彼らはなにかをして(それは死体だろうが)周囲から迷惑がられている。

 

そして上級市民論がある。上級市民というの主人だ。これはヘーゲルが書いている。主人は能書き行って遊んでいるだ。そして奴隷をつかっている。多くの女性学者たちもやはり上級市民で主人だ。もちろんこれは女性だけではない。

上野千鶴子もやはり上級市民で主人だ。だから彼女は見ず知らずのひとの商売にケチをつける、その論拠は見ず知らずのひとであってもそのひとは上野の使用人もしくは奴隷だからだ。

東京オリンピックに彼女は反対だった。署名運動はやったのかな?だが本気で東京オリンピックの実現を阻止したいのなら国際世論を動くようなことをする必要があったのだが彼女はそういうことはしなかった。そしてそういうアイディアも浮かばなかった。sれおは上野がずっと上級市民で主人でいていわゆる仕事は使用人もしくは奴隷にやらせてきたから。

東京大学はひどくマッチョだそうだ。上野はそういうことを変えるような仕事をすることはないない。能書きいって遊んでいるだけだ。そういう仕事は使用人もしくは奴隷にやらせるつもりなのだ。