世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

統合失調症回復の記録 40

マーフィの法則の音声をずっと聴いている。聴いていて「コレ(こういう内容)は昔から知ってたよね」と思っている。それは私が長年不幸で下げ止まっていたからだ。

 

私は事実子供の頃からいろいろあった。ここのポイントは子供のときにということだ。前に問題にすべきは感情ではなく認識だと書いた。事実子供の時にいろいろあったひとは、その時には物理的に身体が小さいし無力なのだ。この認識が規定値になっていることが多い。違う言い方をする基本OSになっている。

そして世界をホラー映画のようなモノだと信じてしまっていることが多い。そういうことが基本認識になっている(基本OSになっている)ということだ。世界をホラー映画のようなモノだと信じているのであれば日常的に不安な恐怖に苛まれることはおかしなことではない。

こういうことが基本OSになっているひとはこの基本OSを上書きする必要があるということになる。

 

いろいろな保護措置や優遇措置も思考のワナになってしまう可能性もある。私は保護措置優遇措置が不要だとは思っていない。

私は言っているのは思考のワナという話だ。事実私も保護措置優遇措置に支えてもらっていた時期もあった。だがそういうことでいつの間にか「自分は保護措置優遇措置がないと生きられないひとだ」と思いこんでしまっていた。この意味は私は無能で無力だということでしかない。

しつこいが事実保護措置優遇措置に支えてもらった時期はあったしその時期には事実そういうことが必要だった。だがそういう中で自己像セルフイメージが著しく害されてしまったのもまた事実なのだ。

 

マーフィの法則のなかで「小型犬がキャンキャン吠えているのを大型犬が見ているような」というタトエがあった。

感情的になるかならないかということに関しても感情にフォーカスすると「怒りをコントロールする」と話になる。

でも同じことを認識の問題として捉えると「悪い自己像セルフイメージを持っているからではないか」という話になるのだ。

 

「好きなことをやればいい」ということに関しても最近「そうだな」と思った。私は本を読むのが好きなのだがちゃんとした本は読んでいないし体系的にも読んでいない。。

そして多くの読書家は「本なんか読んだって」と思っている。本なんか読まないひとを尊敬しているひとも多い。本を読んでいると物事を素直に捉えられないことが多いからだ。

ただこれは好きなことだった。

 

ここのところ時々妄想(といってもそれが現実ではないことはわかっている)の雲が時々ハレている。またここ10年くらい怒り死にしそうなくらいに怒っていたのだが怒りもだいぶ落ち着いてきた。

 

自己像セルフイメージについてだが自分がしたいろんなことが長年本当に気になっていた。それをここでは悪いことだとする。だが実際は「悪い自分」という自己像セルフイメージを私は持っていてその自己像セルフイメージが基本OSになっていたようだ。そして自己像セルフイメージを上書きして変化させていたようだ。

実際そういうトレーニングもやっていた。

そして自己像セルフイメージが上書きされて基本OSが変わっていた。すると自分gあしたあることがそんなに気にならなくなっていた。いつの間にかそうなっていたから気がつかなかった。