世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

危険な社会の現実と解決策

今の日本は危険な社会だ。これは銃で危険だという意味ではない。前に脳学者の中野信子がサッカーの試合でシュートが外れると観客が「あー」ということを指摘していた。危険だというのは例えばああいうことだ。ああいう場面で拍手しても良いのだから。

ずいぶん前に同世代の友人と旅行の相談をしていた。最初にアイディアを出すだけの集まりをやったのだが彼はまずアイディアを出さない。そして人が出したアイディアにケチをつける。だから「今アイディアを出しているだけだからアイディアを出して欲しいしひとが出したアイディアにケチをつけるのはやめてくれ」と言ったのだが彼は私が何をいっているかわからなかった。私は彼が私が何を言っているのかわからないという事実に驚いだ。

私がいう「危険な社会」である日本で一番安全な立場はどういう立場なのかだ。答えは審判だ。今の日本のような「危険な社会」では審判が一番安全なのだ。

今の日本で審判にあたるのはもちろん一つは週刊文春だ。ワイドショーもそうだろう。だが週刊文春やワイドショーだけではない。私自身自分や自分たちが社会的に黙殺されていることに怒っている。だがそういうことをいうひともやはり審判になってしまっている。私自身がそういうことについて単に異議申立てをしたとしてもそういうことの意味がどうしても「今の社会を裁く」という意味を持ってしまう。だからそういうことをするひともやはり審判なのだ。

今の日本社会をサッカーの試合をやっているようなモノだと考えてみる。そしてそのサッカーの試合の審判について考えてみる。今の日本はサッカーの試合は普通にやっている。だがフィールドに審判が500人くらいいるような状況だ。こういう状況ではサッカー自体がやりづらくてしょうがない。

野球でたとえても同様だ。(詳しくないので良いタトエがでてこないが)ピッチャーが一球投げるたびに30人いる球審たちが会議をはじめて「今のはストライクかどうか審議する必要がある」とかいう話になっている。「今のは確かにストライクだがボークの可能性がないとはいえない」という球審もいる。「風を吹き方も考慮する必要があって」という球審もいる。さらに「あのピッチャーは最近彼女とうまく言ってないようなでそういう心理状態も考慮する必要があって」という審判もいる。そうなると「どうでもいいから野球させろ!」という話になってしまう。どうでもよくはないのだが。

実際今の日本はこういう状況だ。だから

①審判の数を減らす。

そして主審がある判定をしたら主審の判定に従うようにする。

②そもそもこうなっているのは日本社会が危険が社会だという事実を認識する。

「日本社会が危険な社会だと認識したらどうなるんですか」とは聞かないでほしい。そういう態度姿勢が大量に審判を発生されることになるのだから。