世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

清少納言と大河ドラマ

今年の大河ドラマ紫式部を題材にしている。

 

紫式部清少納言は現代人だと思ったほうが良い。

 


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清少納言は二世だ。お父様もお祖父様(お祖父様ではなくて曽祖父かもしれない)も有名な歌人だ。いまでいうと芸能一家の生まれのようなひとなのだ。だが清少納言には歌(和歌)の才能がなかった。彼女に和歌の才能があれば和歌を詠んでいたはずだ。だが彼女には和歌の才能がなかったので随筆というスタイルで書いている。

そして「それイヤなんです」「ああそれできます」とすっといえるようなお人柄。

一方紫式部はそういうストレートな表現が苦手なひとだ。だから物語を作ってその物語の登場人物がこう思ったというふうにした方が自分が出るようなひとだ。

 

あの時代に女性の文学者が何人もいることは世界史上異常なことだ。もっとも女性の文学者は明治に入るまで日本にはいなかったのだが。この理由はよくわからない。ただ当時の日本(古代日本)は古代中国文明をちゃんとは導入しなかったということが理由になる可能性はある。

かな文字は女性文字だ。漢字は男性文字。ここでいう男性女性というのは正式非正式という意味だ。男性文字である漢字で書かれた文章は正式な文章であり公式文章にあたる。女性文字であるカナをつかってかかれた文章を非正式な文章であり非公式文章にあたるものだ。

古代日本が古代中国文明をちゃんと導入していたらかな文字(つまり女性文字)はもっと地位が低かったはずだ。そして女性の地位ももっと低かったはず。そうであればあんな時代に女性の文学者が複数いたようなことはなかったはずなのだ。

日本は明治以降欧米の文化文明を大胆に導入したのだがどこかちゃんとは導入していない。「ちゃんとは導入しない」ということは1000年前からあったのだ。

 

上に書いたのは橋本治の「桃尻語訳 枕草子」だ。これは1980年代の女子高生言葉で枕草子を現代語訳したものだ。

 

そしてこれは同じ橋本が源氏物語光源氏の一人称で現代語にしたものだ。

「なんで橋本はこんなことをしたんだろう」と思っていたら平安時代には丁寧語がなかったというのだ。橋本は一言一言を現代の言葉に置き換えるスタイルで現代語翻訳する。このスタイルで現代語に翻訳すると枕草子は1980年代の女子高生言葉がにつかわしいのだが源氏物語を丁寧語抜きで現代語にすると違和感があるのだ。

 

古典はなんでも敷居が高い。私も10代から20代にかけて源氏物語を何度かよもうとしているが光源氏が生まれる前で挫折した。そこの部分が暗いしドロドロしてて詠んでいてつまらなかったのだ。

源氏物語の話を知ろうと思うのなら大和真紀の「あさきゆめみし」がいい。

 

 

男性の漫画家が源氏物語を取り上げている場合もあるのだが、そういう仕事はエロティックになっている。源氏物語は事実たくさんの色恋の物語だ。だがエロティクに流れるとおもしろみにかける。

源氏物語は少女マンガだといえば少女マンガなのかもしれない。かな文学はそこまで地位が低くないとはいえ地位が低いものだったはずだから。

そういえばネットで「日本はLGBTに必ずしも寛容ではないしポリコレにも厳格には対応していないのにBLコーナーが普通に本屋にある」という記事を見かけた。BLの読者も基本女性だ。あれはかならずしもエロティックな意味ではない。もちろん過激な性表現はあるのだがほとんどの女たちは関係性を楽しんでいるだけであるはずだ。

 

土居健郎「甘えの構造」がヒットした。

 

甘えにあたる言葉が英語にはない。だが東アジアにはどこの国にもたいていあるはずだ。これが西アジアになると私にはわからない。

そういえば国内外で大ヒットしている呪術廻戦の主人公虎杖悠仁(イタドリユウジ)は普通に甘える人物だ。BLファンの女性たちはたとえば呪術回戦を読んで平気で周囲に甘える虎杖悠仁(イタドリユウジ)と他の登場人物との関係性を楽しんでいるんだと思う。そこに性愛の表現が入ったほうがより親密であることがわかるか性愛が出てくるのであってそもそも性愛を描くことが目的ではないはずだ。