世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

人生の幸運と逆境

運が良いのか悪いのかはリアルタイムではわからない。私は子供の頃は結構しあわせだったのだが小学校の途中からずっと不幸で下げ止まっている。ただそうであったらいろいろやらざるを得なかったしいろいろ考えざるを得なかった。

これもよくはわからないのだ。なにしろ昔のことすぎてよく覚えていない。

不幸で下げ止まっていたからいろんな勉強もしている。うちはネグレクトに近かった。お金もなかった。だから勉強したくても勉強するような環境もないしお金もなかった。だから勉強に飢餓感があったのだ。ブロイラーにエサを食べさせるように子供の頃から勉強を強いられていたら勉強したいと思うことはなかった。

そして若いというのは本当にひどいもので私の商売の師匠(喫茶店のオーナーマスターで私より4才年上)に本当にいろいろ教えてもらっているしいろんなひとやいろんなところを紹介してもらっているのに長年なんとも思っていなかった。若すぎて意味がわかっていなかったのだ。

ただあるひとと合うかどうか(会ったかどうか)でそのひとの運命は大きく変わる。そういうことは本人にはコントロールできないことだと思う。

 

言霊はある。これは前にも書いたが笑顔は良い。それはそうだ。だが「不幸だから笑わなきゃいけない」と思って笑っているような場合は笑顔を作るたびに「自分は不幸だ」といっているのだ。そうすると「笑顔」よりも「不幸」の方が効いてしまう。

それはリッチでも同様だ。リッチと言って普通にリッチな気分になっているひとは良いのだ。だが「自分は貧乏だからリッチっていわなきゃ」と思っている場合は「自分は貧乏だ」の方が効いてしまう。

もう10年以上前になるが斉藤一人さんの本を読んで「なんとかなる、なんとかなる、絶対なんとなる」と言っていたことがある。あの時にはあれば効いたと思うのだ。だがあれが「うまくいく、うまくいく、絶対うまくいく」だったら聞かなかったと思う。理由?事実うまくいってなかったし、そのことは誰よりも自分自身にわかっていたから。

 

 

あるひとに紹介されて心屋仁之助の本を読んだ。「なるほど」と思った。

 

心屋仁之助は「存在給」といっている。存在給というのは自分はまったく仕事をせずプラプラしているだけの自分に自分はいくら給料を出すのかという話だ。これは誰かがではなくて「自分が自分にだす給料の額」が存在給。

私もずっと存在給が低かった。こういうひとはガンバルのだ。そして頑張って居る時にはそれなりにお金があるのだ。それは頑張っているから当然かもしれない。だがそういうお金がなんらかの理由えなくなるのだ。経験上これは本当にそうだ。

"Give and take"という。最初は"give"だ。心屋の本に書いてあったから神社に5千円のお賽銭をあげた。その当たりからお金のメンでよくなってきた。

お金がたくさんあっても本当になくても意味は一緒のことがある。そういう時にはお金をつかんでいる。そうなるとお金が流れなくなるのだ。

 

だけど何かができるとしたらそれは前にやったことがあるか勉強していたからだし何かをしっているとすれば前に勉強しているからだ。それ以外の理由はない。

ただ(これはいまから思えばだ)病気をしてどうしてもできなくなったことは天の恵みだった。実際私はほぼなにもできなくなったからほぼなにもしていない。なのになんとかなっていた。

 

「良いことをいえばいい」「良いイメージを持てばいい」というひとも居る。エベレストを踏破する」という言っているひとでそこで止まるひとと細かい具体的なことになる(?)ひとがいる。この違いはよくわからない。その細かい具体的なことは例えば「登山雑誌を買うこと」や「今日バイトに行くこと」や「アウトドアショップに行くこと」だ。こういうふうになるひとはやがてエベレスト踏破する可能性がある。

視覚イメージだというひとはいるのだが。たとえば車がほしいと思ったとする。すると今ままで全然気にしてなかったのに普通に歩いていても車が気になるからついつい観てしまう。自動車のディーラーの店舗も気になる。こういうことの意味が「自覚なく頑張っている」のだというのだ。

このあたりは私には「こうです」とはいえない。

 

最近「ファイヤー」本を読んだ。そして「こういうひと知ってる」と思った。著者の女性は子供の頃から「絶対お金持ちと結構する」と決めていたそうだ。子供の頃からお金がないのがイヤだったのだ。

私は実際にそういうひとにあったことがあるのだ。本にでてくる他の人たちみたいなひとに実際に会ったことがある。

だから運が良いのか悪いのかはリアルタイムではわからないのだ。