世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

久米宏の失敗 正誤の問題としての間違い

日本社会にはたくさんの間違いがある。間違いと私が書いているのはこれは善悪の問題ではないからだ。善悪の問題ではなく正誤の問題。

1980年代が日本のターニングポイントだった。久米宏ニュースステーションで人気だった。私は久米宏は冷静に淡々と番組を放送したかったはずだ。だが時々感情的になっていた。あれは久米宏のミスだ。つまり久米の失敗。だが久米宏のミス、つまり失敗を「うまい表現技巧だ」と考えた人たちがいたはずだ。

たとえばVTRが開けて久米がスタジオでVTRを受ける時に久米が感情的になっていたことがあった。しつこいのだがあれ久米のミス、つまり失敗だ。久米自身もそう考えていたはず。だからあれはうまい表現技巧などではない。

だから久米が感情的になった(なってしまった)というミス、失敗をうまい表現技巧だと捉えるのは間違いなのだ。

 

ビジネスという。利益には短期利益、中期利益、長期利益がある。短期では利益が出ても中期、長期で赤字になることがあるのだ。こういうことは当然避けた方が良い。

 

コンテンツビジネスがわかりやすいが3種類のコンテンツを同時に出して行くことが望ましい。

①旬のもの

②ちょっとずつしか売れないが長く売れるもの

③今すうぐには売れないかもしれないが20年後、30年度売れる(はじける)であろうもの

①は雑誌でいうと芸能人のスキャンダルや「〇〇が脱いだ」のようなものだ。

②は本の世界でいうと30年かけてベストセラーになるようなもの。

③は音楽でいうシティポップのようなものだ。

3種類のコンテンツをバランス良く出していくことが大事になる。

これをテレビや雑誌で考えてみる。そうすると視聴率や売り上げが絶対ではないことがわかる。視聴率は(いわば)その時の売り上げだからだ。そしてこれは雑誌でも同様だ。その時の雑誌の売り上げが良いことはもちろん望ましい。だがある時に雑誌に掲載した記事が②③のようになることも想定する必要がある。

 

顧客満足度(お客様満足度)とスタッフの満足度は正比例する」。これはテレビでいうと視聴者の満足度を上げるためには番組出演者スタッフの満足度を上げるしかないということだ。

私があまりテレビを見なくなった頃に「これ(ある番組やある企画)を番組のスタッフやキャストはあんまりやりたくないんじゃないのかな」と思っていた。それどころが「イヤこういうことはやるのがイヤなんじゃないのかな」と思っていた。少なくとも私はそう思っていた。

さっき書いたように「顧客満足度とスタッフの満足度は正比例する」のだ。だからテレビでいうと番組出演者スタッフの満足度が低い場合には視聴者の満足度も低くなってしまう。

 

死ぬほど嫌でした|佐藤秀峰

 

上は佐藤秀峰のノートの記事だ。佐藤は大事な自分の作品の流れにまかせてないがしろにしたこと(そういうことをした自分)とお金で納得してしまったコト(そういうことをしてしまった自分)がたまらなくイヤなのだ。誰もが自分が大きな流れの中にいる時にその大きな流れの外に出ることはひどく難しいものではある。

佐藤は(自分が当時そういうことができなかった、それは十分知識もなかったのだから致し方ないことではあるが)自分のあまりの満足度の低さが自分で我慢ならないのだ。

 

佐藤も当然大人のクリエーターなのだから大人の事情は当然(当時であっても)わかっている。それなのに「なんにもわからない幼稚なバカ」扱いを受けている。ひどい侮辱だ。こういう侮辱を受けて怒らないのはおかしな話だ。

結果多くのひとたちが中期的長期的に大損をしている。

 

ドライに考冷徹に考えられるのが大人のビジネスパーソンだという考えは一面あたっている。だけど基礎的な知識がないようでは話にならない。そして短期的には成功しても(短期的も失敗していることも多々あるが)中期的長期的に失敗しているようでは話にならないではないか。ビジネスの上での失敗とはもちろん儲からないということだし赤字を出すということだ。

だからビジネスの上でドライに冷徹に考えたとしても中期的長期的に儲からない、赤字を出してしまうようなことでは失敗しているのだ。つまりそういう判断は間違っている。

 

最初に書いたように私は善悪の話はしていない。正誤の話をしている。

 

しつこいがビジネスで儲かっていない、あるいは赤字を出しているようんでは失敗だとしかいえない。そして失敗をもたらうよう言動や判断は間違っているといわざるを得ない。