世の中と私

グチです。でも世間のおかしさをいちいちいうと世間にいられないでしょ。

ジストニアがもうすぐ治る 私は主に頸部ジストニアだった

すべて敬称略です

ジストニアというのは筋肉が引きつって引きつりが取れなくなるものらしい。私は主に頸部ジストニアだった。強い向精神薬を飲んでいたのでその副作用でもあった。実際昔付き合っていた同病の女性は首の後ろが引きつって顎が上がってしまっていた。横にならんで歩くときには私が彼女の頭の後ろを支えていた。首が引きつって顎が上がってしまうのだ。彼女はそれくらいジストニアがひどかった。

ただこれが難しいところで副作用があるから飲まないほうがいいのかどうかはわからない。副作用もあるが当然薬には効果もあるからだ。また精神疾患の薬だけが特別なのか?という話もある。実際今でも精神疾患の薬(病院から出してもらったものだ)を飲んでいるひとに「薬に頼っちゃタメだって」というひとがいる。それは一面はごもっともだと思う。だが他の病院からもらう薬はどうなんだということがあるのだ。たとえば高血圧の薬と精神疾患の薬は本質的に違うものなのだろうか。

私に結論はないがこれはなんともいえないところなのだ。

私は50代に病院を変わって薬がすごく減った。その頃からジストニアは余計にひどくなった。身体のあちこちが引きつって動けなくなったこともあった。ベッドに寝ていても自分の身体がどうなっているのかわからないし首も腰も痛くてどうしようもなくなった。どういう姿勢になっても身体中痛いしだいたい自分の身体がどうなっているのか自分でもわからなかった。でも最近やっとおちついてきた。今から思えばあれは回復期の苦しみだった。

おかしかったのは首だけではなかった。喉も腰もおかしかった。とにかく全身がおかしかったのだ。でも何十年もそうだったから自分で(自分の身体が)おかしいと確信を持てなくなっていた。

 ジストニアで苦しんだひとは結構いるようだ。歌手の伍代夏子米米CLUBの金子隆博ジストニアで苦しんだ。伍代夏子は歌手なのに声がでなくなったし金子隆博はサックスプレイヤーなのにサックスが吹けなくなった。お二人は仕事ができなくなったのだ。大変なことだ。

伍代夏子「初の喉の不調が発声障害。夫・杉良太郎との夫婦関係も見直して」〈独占告白、全公開〉 それは、「私」を振り返る日々|芸能|婦人公論.jp

金子隆博の病気はジストニア。どんな病気?驚愕の事実! | あげしおブログ

 

今この記事を書きながら「そうだったのか」と納得している。ある時アスリート家族のご長男に下のご兄弟が困っている様子をテレビで観た。そしてそれが変に自分の中に残っていた。

その家の事情は知らないがご長男は役割としてはお母さんだった。下のご兄弟は親離れしているのに母親の役割をやってきたご長男は前のように接していたのだ。反抗期にお母さんが子供からババアといわれるような状況だった。

私は勝手に「お兄さんが自分のことをやりだすと状況が変わるんだけど。でもアドバイスしてもあまり意味はないんだよな」と思った。自分のことというのはマンガをよみふけるとかゲームが徹夜でやるとか映画を観るようなことだ。私がアドバイスしてもあまり意味がないと思ったのはお兄さんは「べき思考」に陥っていたからだ。「べき的思考」ともいう。

「べき思考」「べき的思考」というのは「○○すべきだ」「○○しなきゃいけない」という思考発想のことだ。もちろん日常生活の中にやるべきことややらなきゃいけないことがある。そして当然やるべきことはやるべきだ。当たり前だ。ただ「べき思考」「べき的思考」におおわれてしまうと「〇〇したい」ということが本人の中から無くなってしまう。これは本当にそうでごはんを食べることも「お腹がすいたからごはんを食べなきゃ」と思うようになるのだ。夜寝るのも「眠いから寝る」のではなくて「寝なきゃいけないから寝る」という風になってしまう。食事のことでも「カレー食べたい」とか「ラーメン食べたいな」と本当に思えなくなってしまう。そして本人はそういう風に自分がなっていることが気がつかないものなのだ。実際私がそうだった。

私がアドバイスしてもあまり意味がないと思ったのはあのお兄さんの状況だが誰かが「ゲームでもやればいいんじゃないですか。マンガを読んでも良いと思うんですけど」というと「ゲームをやらなきゃいけない」「マンガを読むべきだ」と思ってしまうだろうと思ったからだ。そしてそうなってしまうのが「べき思考」「べき的思考」に覆われているということなのだ。

私がいっているマンガを読むというのはそういう意味ではない。ただある時にお兄さんは「マンガくらい読んでもいいかな」「ゲームくらいしても良いかな」「映画くらい観に行ってもいいかな」と思えるようになるような気がした。

こういうことを私は勝手に考えていた。それはそれだけのことだった。

私はそういうことを自分でやり始めた。その頃鬼滅の刃が話題になっていたので鬼滅の刃の映画を観に行ったり世間でサウナがブームなのでサウナに行ってみたりした。別にそういうことをやったからといって何かが変わることもなかった。でも「これくらいやってもいいかな」と思ったのだ。そして結構前からそれくらいやってもよかっのだ。そのことは結構あとになって気がついた。

実はその前に私は緊急入院していた。入院生活では(もちろん病気だからだが)ご飯は出してもらえるしお風呂は沸かしてもらえるし掃除もやってもらえる。私は入院生活が苦しかった。ヒマでヒマでそれが苦しかったのだ。でもあの時緊急入院してスローダウンできたことがそのあとの「映画くらい観に行ってもいいかな」ということに結びついていた。その時にはそんな風には思っていなかったのだが。

物理的にそういう余裕があっても長年精神的にはそういう余裕がなかったのだ。

そしてさっき伍代夏子のインタビューを読んで「そうか」と思った。私の父親が子供のころに荒れていた時期があってひどく怖かったのだ。大昔のことだ。私が小学校に上げるか上がらないかの頃の話だが。前に映画「エルビス」のことを書いた。エルビスの父親も荒れていてひどく怖かった時期があったはずだ。映画にはそこの描写はないが。そういうところは私も一緒だった。

単純な話緊張すると筋肉は強張るし引きつる。リラックスしていれば筋肉は緩んむ(弛緩する)ものだ。私は精神の奥に深い緊張をいつも感じていたようだ。そしてその緊張がとけてきた。

そしてこういうワークをやった人たちはカタチは違ってもたいてい同じことをしている。誰でも多少はあることだが昔のことで「流していたこと」を受け入れている。ひとによっては「ホラーだった」というし違う風にいうひともいる。実際カタチはいろいろだ。だけどみんな「昔の流していたこと」を受け入れている。受け入れてしまえば終わったことだ。受け入れていないうちは本人の中では終わっていない。

そして今私は完全に「このままでいいんだ」と確信している。前から「大丈夫だ」とは思っていたのだが今本当に「大丈夫なんだ」「これでよかったんだ」と確信している。本当によかった。

ただ私は「こういう風になるからこうしよう」と思っていたわけではなかった。なんとなくこうしていただけだ。