すべて敬称略です。
今の私の現状はひどい。そうなのだがなぜか気持ちが落ち着いている。引き寄せの法則の本を読んで「世の中は波動バイブだから今の現実がどうであってもたやすく変化する」とは知って(信じて?)いる。また自分が今出している波動バイブが良い波動バイブだという事実があるからだ。もちろん今私が出している波動バイブがカタチになるのにはちょっと時間がかかるのだが。
ただそうだとしても(そう自分が信じているとしても)今みたいに落ち着いた安心した気持ちにはなれない。実際自分自身がずっと恐れや怒りや寂しさをいつも感じていたし悪い波動バイブしか長年出せなかったのだ。
1年か2年前に斉藤一人の本を読んで「なんとかなる。なんとかなる。絶対なんとかなる」と言っていた。でもその頃は不安で不安でしょうがなかった。でも今は実際安心している。
ビンタ騒動で話題になったがウィルスミス主演の映画に「幸せのちから」がある。基本翻訳は不可能だ。幸せの力の原題はTHE PURSUIT OF HAPPYNESSだ。HAPPYNESSは綴りが間違っている。本来HAPPINESS。映画の中にこの間違いが出てくる。子供を預けている幼稚園(?)でHAPPINESSをHAPPYNESSと書いてあるのだ。THE PURSUIT OF HAPPINESSは幸福の追求のことだが。
もとはアメリカの独立宣言だろう。「自由と平等と幸福を追求する権利」をもっていてそれを誰かが奪ってはならないという記述があるのだ。この「幸福を追求する権利」「幸福追求権」は日本国憲法にもある。
これは幸福追求権なのだ。だから「誰かの今の幸せ」「誰かが今甘受している幸せ」が問題ではない。話がわかりづらいと思うが。今誰が幸せであることを邪魔してはならないではない。また今誰かが甘受している幸せを奪ってはならないでもない。
幸福追求権は「誰かが幸福を追求することを邪魔してはならない」なのだ。だから誰かが幸せになろうと思っていることや誰かが幸せになろうと思ってしている努力を邪魔してはならないなのだ。
だいたいこれはアメリカの独立宣言に書かれているのだ。アメリカが独立する時の言葉が独立宣言なのだ。そういうことを考えあわせないと「幸福追求権」が明記されていることの意味がわからない。
でも(だから?)映画のタイトルの幸福の綴りが間違っている。ということは「そもそもの幸福(アメリカの独立宣言に明記してある幸福)の綴りが間違っているということだ。
お金をもっていれば幸せかどうかは不明だ。もちろんお金はあったほうがいい。それはそうだが。
映画「幸福のちから」の幸福の英語の綴りが間違っていることにはそういう意味があるはずなのだ。
そもそも「しあわせってなに?」という意味が含まれていることだ。
こういうことをどう日本語に翻訳すればいいのだろうか。翻訳は基本不可能だというのはこういうことでもある。そして映画「幸福のちから」のタイトルの幸福の綴りが間違っていることの意味もだ。
そしてこの映画では主人公は証券で大成功をおさめるのだ。証券のビップたちや主人公のライバルたちが普通にやっていることが主人公には大変なことばかり。彼は証券のビップたちや主人公のライバルたちが普通にやっていることができない。そうするためのお金がないのだ。確か証券会社のVIPから野球(メジャーリーグ)を見に行こうといわれるのだが主人公は野球を見に行くお金がないのだ。そういうことがあって(あるからと言ってもやってはいけないことはやってはいけないことだ)タクシーの料金は踏み倒している。他にもひどいことをたくさんやっている。たいてい犯罪だ。ただ証券会社のVIPたちが主人公に課してくることをやろうとすると犯罪を犯すしかない。そして証券会社のVIPたちも主人公のライバルたちもそういうことがまったく理解できない。
これは今の日本もまったく一緒だ。デフォが違うというらしい。デフォというのは規定値だ。たとえば「お父さんが夕方毎日かえってくる」ということが普通ではない人たちもいるしお母さんがご飯を作ってくれるのも普通ではないひとたちもいる。今の日本でも規定値が違う人たちがいるということが理解できてない人たちが大量にいるのだ。
実際生活保護バッシングをやった政治家がそうだった。生活保護バッシングをやった後にテレビで「いいですか。医療費まで無料なんですよ」と偉そうにいっていたのだ。子供のころから金がなくて医者にかかれない子供はいたしカネがなくて身体を売るしかないくてそういうことをしていて自殺した女はいつもいた。そういうことが日本からなくなったことは一回もなかった。80年代に日本がバブルで浮かれていた時にもそういう人たちはいた。私や私の周囲にもいた。そういう人たちでうまくいったひともいるし破滅したひともいる。ただ私たちがそういうことをいうとヒガミになるからいわないだけだ。
そしてこういうことを知らなかったということは良いわけにすらならない。
漫画家の西原理恵子もそういうことをマンガで描いている。他にもそういうことを書いてきたひとや言ってきたひともいくらでもいるのだ。だから知らなかったなんてただの嘘にしか過ぎない。
ただここまでわからない人たちがいるのは「デフォが違う」からだ。たとえば私は中学で部活動ができなかった。お金がないからだ。このことをあるひとにいった時に「遠慮されたんですね」と言われている。遠慮ではない。具体的物理的にウチには中学で部活動をやるお金がなかっただけのことだ。デフォが違うとこういう無理解が生まれる。
この映画で私は駅のトイレのシーンが大好きだった。主人公は駅のトイレにいて、そこで過ごさなききゃいけないのだが、清掃のひとが入ってこようとする。主人公は清掃のひとが入ってこようとするのを必死で止めるのだ。
私はこのシーンが大好きだった。
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