マクルーハン「熱いメディアと冷たいメディア」 受容者Receptorの振る舞いの問題
マクルーハンはカナダ人の文明批評家でメディア論の大家だ。スター学者だった。スター学者だったので本人役で映画に出ている。ウディアレンの「アニーホール」だ。
マクルーハンは熱いメディアと冷たいメディアといっている。これを観客(情報の受け手)が静かにしているか静かにしてないかの違いだと考えてみよう。実際はこういうことではないはずだ。熱いメディアと冷たいメディアというのが私にはよくわからないのだ。ただこれはもともとはジャズの用語らしい。
ここで観客視聴者聴取者のことを仮に「受容者」と呼ぶことにする。英語では仮にreceptorとしよう。
ニコニコ動画で観客のコメントが画面上に流れる。あの受容者のコメントがニコニコ動画は楽しい。あれをコンサートで騒ぐひとの言動だと考えてみる。ある種のコンサートでは受容者が歌ったり踊ったり騒ぐことが楽しみだ。受容者たちがそういう楽しみ方をするコンサートもある。
だが一方にはひたすら聴きたいコンサートもあるのだ。これが混在していると困る。具体的にいうと歌手の歌がききたいのに受容者が歌っていてその声が邪魔な場合があるのだ。
ニコニコ動画の画面上に流れるコメントが邪魔だというひともいるはずだ。それはコンサートで騒ぐ連中が邪魔だということと同じだ。「せっかく歌手の歌を聴きたいのに」という意味だ。
私はアニメのリアクション動画を何度も見ることがある。そのアニメはすでにみているのだ。ある場面についての反応?感想?を観たいからリアクション動画を見ている。
情報の流れ方の問題としてオリジナルのコンテンツから派生した受容者Receptorの動画が重要になっている。そういうことにはイイネを押すということも含まれる。拡散もそうだ。現状がそうなっている。それが良いとか悪いとかいう話ではない。現実がそうなっているのだ。
私が長年悪く思っていたテレビのコメンテーターもそうだ。あの人たちも受容者でReceptor1だ。ワイプに映っているタレントもそうだ。やっぱり受容者でReceptorなのだ。
だからどうということはない。ただそうなっているといっている。