すべて敬称略です。
呉智英が差別を認めている。認めているというとおかしいのだが。
たとえば沖縄の問題がある。奄美大島も入るのだがここでは沖縄と書く。事実として沖縄は日本の植民地だ。実際沖縄でサトウキビの栽培を行っている。このサトウキビ畑はプランテーションだ。サトウキビの意味は綿花やコーヒー豆と同じなのだ。「沖縄は日本の植民地だ」という事実を認めることは差別だ。差別なのだが「沖縄は日本の植民地だ」と認めれば沖縄に植民政策を行うことになる。そして「沖縄は日本の植民地ではない」としている(つまり差別していない)から沖縄に対して植民地政策を行っていない。そして沖縄に対して植民地政策を取るためにはまず沖縄は日本の植民地だと認める必要がある。そして沖縄は日本の植民地だと認めることは沖縄は日本のほかの地域とは違うと認めることになる。それは沖縄を差別することになるのだ。
私が言っているのは事実の認定だ。
貧困問題にも似たようなところがある。女性問題にもだ。差別を認めれば貧困状態でそだった人にゲタをはかせることはありうるのだ。女性が劣っているとは思わないがもし女性の社会進出を進めたいのであれば女性にゲタをはかせることはおかしなことではない。障害の問題もそうだ。
でもこれは貧困状態で育ったひと(私もそうだが)や女性を差別しているのだ。
クオーター制についての議論がある。クオーター制である種の人たちを優遇することは差別に他ならない。無意味に冷遇するのも差別だが無意味に優遇するのもやはり差別なのだ。
だから障碍者を優遇するのも差別なのだ。
またある種の世界たとえば芸能界やスポーツ界。私はこういう世界のひとには一般社会の倫理を求める気にはならない。でもそれは差別だ。
今の日本では差別を認めていないことがとてもおかしなことにつながっているといわざるを得ない。
保守(?)が反応したことがいろいろある。最近はLGBTだ。あの人たちは「反差別主義者」だったようだ。あるいは「平等主義者」。
「みんな平等のはずじゃないか!」と怒っていたらしい。
保守というか月刊Hanada的なことだ。