言ってはいけない 考えてもいけない のが一番危険だと思うのです
言ってはいないことが多すぎる日本
デイリー新潮の記事(上)で橘玲さんの本を知りました。
この本についての反論はできますが今回はしません。
ただ
言ってもいけない
考えてもいけない
ということがあまりに多すぎることを問題にしたいと思うのです。
ずいぶん前なのですが朝まで生テレビで海外からの農産物の輸入を認めるかどうかという議論があったのです。80年代か90年代だったはずです。
その時に日本の農業を守る(つまり海外の農作物を入れない)という立場の政治家や学者に私は激怒しました。
彼らは海外の農作物を入れたら日本の農業は壊滅するとしかいわなかたからです。
そういうことを言って日本の農業を守れる(海外の農作物輸入を拒否できる)のならいってもらって構わないのです。
だけれどそんなことをいうことが海外の農作物を入れない(つまり日本の農業を守る)ことにはまったくつながらないと思ったから激怒したのです。
実際海外の農産物は入ってきました。
昔三矢研究というものがありました。これは自衛隊による朝鮮半島有事の研究です。当時これが大スキャンダルになったのです。
だけれども朝鮮半島に何かあった時のシミュレーションをするのは当然です。
可能性があることを洗い出してそれに対する対応策を練ることは「やるべきこと」でしかないのです。
保守とかリベラルとか問題ではなくこううい現象が日本で本当によく起きています。
こういう現象と根は同じだと思うのですが集団的自衛権を導入するときに安部さんが具体的な例として挙げた例がひ私にはひどくわかりずらかったのです。
たとえば「日本人を輸送中のアメリカの輸送艦の防衛をする」という例です。どうやらこの輸送艦はアメリカ軍の船らしいのです。
そういう人たちは世間にはいくらでもいます。コミュニケーションが取れない人たちです。
一方的に話すだけで人の話は聴かないであるとかひとが話しているとどうでもいい上げ足を取ってひとに話をさせない人たちです。
世間にいる人たちは天然でこれをやっています。でも政治家や言論人がこういうことをしている人たちがわざと(つまり養殖で)やっているとも思えるのです。
集団的自衛権という論点でもこの状況は日本にも日本人にも厳しいという状況の例は上がっていなかったと私は考えています。
だけれどもある種のひとは汚さを引き受ける必要があるのです。それが違法ではないとしても明らかに汚いことが必要な判断や行為が世の中にはいくらでもあるのです。
栗本慎一郎さんが昔「アメリカで米軍の兵士が一人死ぬのに対して敵軍の兵士がより多く死ぬようになるような(ある意味で)尊敬に値する研究している学者がいる」(これはそうとう曖昧な引用ですが)と書いていました。
当然ですが戦争ではひとが死にます。兵士が死ぬ可能性が高いのです。
命は大事です。でも戦争が起きればひとは死にますしそれが兵士である可能性は高いのでその兵士の死を無駄にしないためにはという発想でいけばこの研究はありえます。
北朝鮮からミサイルが日本に打ち込まれた場合の研究もあるのが当然です。それは右だろうと左だろうとそうです。
でもそういう研究がひどくしずらいことは事実なのです。
違う話ですが肉を私たちが食べているということは誰かがウシや豚を殺しているということです。
鳥インフルエンザが起きれば大量の鶏を殺すしかないのです。
この結論が正しいのかどうかは私は不明です。間違ってないというよりもこういう観点に間違いがあるようにも思わるのです。
鼠穴とう落語があります。都会にでてすでに成功している兄と(最初は)まだ成功していない弟の話です。
たぶん普通はこの落語に関して「人間にはこういう汚いところがあるんだ」という風に思わる気がします。
だけれも私は(今は)「普通だよね」としか思いません。
大人で「人間にはこういう汚いことがあるだ」としか思えないひとは「ひととしての汚さ」を誰か自分はずっと押し付けてきたんだと思ったほうがいいです。
たとえば動物をひとに殺させておいて自分はただおいしく食べ続けているんだというように。